1992年10月、サンリオから刊行された谷川俊太郎(1931~)の詩集。1952年の創元社版に、1972年4月の角川書店発行『日本の詩集・谷川俊太郎詩集』版の「拾遺」を合わせたもの。装幀は平野甲賀。
私が友人たちの影響で詩らしきものを書き始めたのは一九四九年、十八歳のころでした。大学受験がいやで、将来何をするあてもなくぶらぶらしていた私が、うすっぺらなノートに鉛筆で書きためていた詩を父に見せたのは、翌一九五〇年の秋ごろだったのではないかと思います。父がそれを知人の三好達治さんに読んでもらい、三好さんの紹介で「ネロ」を含む五篇が雑誌『文學界』にのったのが、その年の十二月でした。
詩集を出してくれるという話がK書店からあったのは、多分その後すぐでした。堀辰雄の本などを美しい装幀で出していた出版社でしたが、だんだん左前になり、私の詩集の紙型(活版印刷の鉛版を作る鋳型)が出たころはもう本を発行出来なくなっていました。どういういきさつだったのかは忘れましたが、その肩代わりをしてくれたのが創元社で、父がK書店から紙型を買い取ってくれて、創元社に渡したのを憶えています。
そんなことがあって、私の処女詩集『二十億光年の孤獨』が出たのは一九五二年になってからでした。奥付には、昭和二十七年六月二十日初版發行、定價一八〇圓、地方売價一八五圓、發行所、株式會社創元社と記されています。私は二十一歳でした。いま思うと例外的に幸運な出発でしたが、若かった私はたいしてありがたいとも思わず、出版記念会のすすめも断ってしまい、自転車のハンドルについている籠に、出たばかりの詩集を入れて、母と記念写真をとっただけでした。そのころの私は大変な母親っ子だったのです。
売れるかどうかも分からなかったので、父の知り合いの文壇、詩壇の人たちに読んでもらおうと思って送りつけたところ、たくさんの返事をもらいました。その中には室生犀生、堀口大學、斎藤茂吉などの名もありました。それらの葉書や手紙は私の宝ものになっています。
手元に残っているノートを見ると、詩集にする時にそうとう厳選していることが分かります。ところどころに父がつけたマルや二重マルやバツが残っていて、当時は父の評価に反発もしていましたが、いま見るとその取捨選択の目の確かさに感心します。父は哲学の勉強をした人でしたが、若いころは詩を書いていましたし、一時文芸時評もやった人ですから、父の助けがあったことも幸運のひとつだったと思います。
この本の後のほうの「拾遺」は、『二十億光年の孤独』にもれた作を、一九七二年角川書店から出した『日本の詩集・谷川俊太郎詩集』のためにまとめたものです。若書きを人目にさらすのは恥ずかしいものですが、実はこの後にもう一冊、『詩集十八歳』(東京書籍)という本が、沢野ひとしさんの絵をつけて出ることになっています。ノートに残っているこれまで未発表の作がほとんど全部収録されています。それもあわせて読んでいただければ、一九三一年生まれの私が十代のころどんなことを感じ考えていたかが、少しは分かるかもしれません。いまの同時代の若者たちが、時代のちがいを超えて、それにほんの少しでも共感してくれたら、作者としてこんな嬉しいことはありません。
(「あとがき」より)
目次
・二十億光年の孤独
- はるかな国から ―序にかへて 三好達治
- 生長
- わたくしは
- 運命について
- 世代
- 大志
- 絵
- 霧雨
- 春
- 停留所で
- 祈り
- かなしみ
- 飛行機雲
- 地球があんまり荒れる日には
- 西暦一九五〇年三月
- 警吿を信ずるうた
- 一本のこうもり傘
- 電車での素朴な演説
- 机上即興
- 鄕愁
- 宿題
- 周囲
- 夜
- はる
- 和音
- 灰色の舞台
- 博物館
- 二十億光年の孤独
- 日日
- それらがすべて僕の病気かもしれない
- 五月の無智な街で
- 病院
- 秘密とレントゲン
- 梅雨
- ネロ
- 夕立前
- 演奏
- メス
- 曇り日に步く
- 暗い翼
- 風
- 現代のお三時
- 山莊だより 1
- 2
- 3
- 4
- 埴輪
- 靜かな雨の夜に
- 一九五一年一月
- 曇
- 初夏
- あとがき (一九五二年)
・二十億光年の孤独 拾遺
- 朝
- よび声
- 僕と神様
- 未来
- おそろしいこと
- 夢
- 空
- 常に
- 天使は
- 計算
- 小さな火花
- 昇天拒否
- 午の食事
- 弓の朝
- 香わしい午前
- 雨の日日
- 指
- 悲劇
- 小さな弟
- 倉庫に
- (想う人と動く人についてのノート)
あとがき
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