「支那」事変 飯岡亨詩集

 1976年3月、新日本文学会出版部から刊行された飯岡亨(1931~)の第2詩集。新日本文学会詩人叢書。著者は豊島区池袋生まれ、刊行時の住所は豊島区南大塚。

 

 大分前のことになるが、戦争責任についてのテレビの討論会を観ていた時、「戦時下に子供であったからと言って、戦争について全く責任がないと言い切れるであろうか」という発言があった。
 この言葉は私の胸に妙に深く刺さった。私は子供になんの戦争責任があろうとは思うが、その頃子供だった私が今や四十代も半ばになんなんとしていて、その今の年代からあの侵略戦争について考えると、この言葉が重く心の底に澱んでくるのである。
 一九三一年九月五日に私は生れ、その十三日後の九月十八日に中国東北の柳条溝に於て満州事変が勃発した。これ以降日本は泥沼にのめり込んで行き、私が十四歳の夏、日本は敗れた。
 謂わば私の少年時代は戦争と共に在ったのである。
 今年小学一年になろうとする息子を見ていると、私は二度と戦争を起させたくないと希うと共に、自らの子供時代を省みる。
 私はその頃の身近かな体験と日常性をなるべくたんたんと、単眼のレンズで映すように書いてみたいと考えた。そして一見平易に描かれていることの中に大きなドラマ性があり、平易に描かれていることの外に読者が構成し得る別の世界を曳き出せるような、そうした詩は書けないものかと考えた。
 しかし、試みられたものが平易は平易のままで終ってしまったかも知れないし、また作品内容によって意図が大きく崩れてしまったりもした。しかも少くも二十篇以上にはしたいと思っていた「支那」事変シリーズが今日まで遂に十四篇に止まってしまった。
 「支那」という言葉は今日では禁句である。このシリーズを書き始めた時、例えカッコ付きでも「支那」という言葉を敢えて使ったのは、日本が「支那」という言葉を使って中国を侵略し、多くの中国人民を殺傷していった、よしんばそれが巨大な権力を握っている逆らえない支配階級の命であったにせよそれをした日本という国に生れ、自らや家族を不幸悲惨に追い込んだ、子供ではありはしたがその時代に生きていた者として、そのことを己自身の意識の底に焼きっけると共に、他人に語りかけたいからである。
 日本の侵略は中国にとどまらず(朝鮮は勿論のこと)東南アジア、其他の諸国にも及んではいるが、その発火点となりそれ以前から永年干渉に及んだ中国を中心としてやがて日米開戦となるので題としては『「支那」事変』ではあるが、テーマは戦争期全般に及んでいる。
 とはいえ僅か十数篇、昨夏徳留氏に勧められて今年に入り、せめてあと数篇と思いながら未練たらたらここにいったんまとめることにした。この詩集に載せた三十篇足らずの作品は、旧「JAP」の仲間を主体にして五年ほど前に結成した「稲」という我々の詩誌と、今年五十周年記念号を出す驚倒すべき長寿誌「詩洋」に載せたものばかりである。「支那」事変シリーズは制作順の配列ではなく、歴年順に構成し、他の作品は制作順とした。いずれも一九六七年に出した第一詩集『伝説』以降の作品である。
(「あとがき」より)

 


目次

第一部 詩篇十三

  • ヴェトナムの時 
  • 三才
  •  藤原湖
  • エブリ・インチ・オブザ・グラウンド
  • 少年の朝 
  • ででっぽっぽう
  • サウナ
  • からすうりの花
  • 帰宅
  • 南天の実
  • 消防車
  • 山へ

第二部 連作「支那」事変

  • 二月の雪
  • 前夜
  • 煮凍り
  • 南京
  • 悪運
  • なして……
  • 非常時
  • 铁拳制裁
  • 侵略者
  • 校庭
  • 筑波山
  • 死神
  • 己の中にあるファシズムを憎め

ささやかな飯岡亨論 田村正也
あとがき 飯岡亨


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