1979年10月、編集工房ノアから刊行された清水正一(1913~1985)の第1詩集。装幀は粟津謙太郎。付録栞は、足立巻一「詩とカマボコ」、杉山平一「清水正一と左岸」、福中都生子「清水さんのまなざし」、森上多郎「庶民の詩」。著者は三重県上野町生まれ、刊行時の住所は大阪市淀川区。
三木露風が好きで、露風が選をしていた少年雑誌の詩欄へ投稿したが一度もとられなかった。この冷飯(ひやめし)がくすりになった。運・不運というものではない。以後、詩らしきものを書いて何時のまにやら五十年余の長時間をあだにした。オーサカへ現われたのが筒ッぽの絣飛絣(かすり)を着たまだ少年の日だったが、詩らしきものを書いた年月だけ淀川の左岸(海老江)と右岸(十三)に生活したと云える。五十年と一寸。精神的には川の番人みたいな処がある。自然より人間が好きなのだろう。だから半世紀もったのだ。稀にひとから詩のかきかたみたいなこと問われ、
<かきかたは、生きかただ>と、不気嫌に返辞するよな老年に入った頃、――遇々(たまたま)<老人のいきかたは直ちにしにかただ>と言う大詩人の説にぶっかり、少しは肯定しつも、それならと私なりの反省めいた思考を抱く日がつづいた。
死ぬまでが生きかた、だと思うし、死にかたに就ては残った者達のみかたに任せばいいのではないかとも考えられたりした。生を死より優先させるのが詩人(と、限らないが)の勇気というものではあるまいか。そこで、――老年の生きかたの表現の一つとして、羞恥をかえりみず初詩集を出すことに踏みきった。
厖大な量の中から七〇篇を選ぶ――と云うより五十年の抽斗(ひきだし)からよりぬきしたと云ったほうがよい。
作品の配列は新しいものから頁をかさねて行くよう工夫したがテーマの性質もあって正確にはいかなかった。古い詩をひっぱり出すのは、幼馴染みの少女や、いっしょに働いた職人に久しぶりに逢うような愉しさがあった。漂々と父が顔を出す痛さをころす日もあったりした。女房子どもが出てきて照れ臭い時なども。詩集を形造(かたちづく)って、何よりの発見は、もう一人の自分(詩歌なぞとは全く無縁の)を、発見した、ということである。
こいつにはアタマがあがらないのではないかと思う。
初詩集刊行にあたって、一方ならぬ声援・協力くださった、左の先輩僚友に、心よりお礼申上げたい。足立巻一・杉山平一・福中都生子・森上多郎各氏、「解氷期」の友情あつき仲間にふるき友に。
おわりに企画当初から終始一貫ご尽力いただいた編集工房ノアの酒澤純平氏に、厚く感謝する。
一九七九年秋 清水正一
(「あとがき」より)
目次
Ⅰ 左岸
- 声――左岸へ
- 左岸――わが某月某日
- 清水理髪店
- さびしい水
- 橋――渡って何処へ
- あてもなく神崎川左岸を下る
- 表紙の消えた町で
- 欝色
- 欝夜――年月不明の手帖から
- 欝き世
- 雨戸にメニューをかいた店
- 微笑
Ⅱ 錯覚ノ風景
- 短夜――倖せなるラスト・クランケッ
- わが町
- オーサカ寒イ
- 癪ナ町
- 錯覚ノ風景
- 旅Ⅰ
- 旅Ⅱ
- メキシコのポインセチア
- 数字ニ暗イ蝉
- 風景論トシテノ雨量零ミリバール
- 近きプラハでは
- 幻想のドイツ・ウーファ――詩人H・Sに
- 日本風景―――論・以前の私写
Ⅲ S魚誌
- 魚屋ゴッコ
- 低い風景
- 吉野
- 高架下の暗い魚店で
- シャチ (鯱)
- S魚誌
- 魚臭
- 魚の名
- 鱈
- 鯳
- 割箸
- 古典
- 意中の町
Ⅳ 短イ電車
- 私製・地下映画――見えぬカラス
- 汽車は無声映画のように現れる
- 短イ電車
- 古風な嗅覚
- 曇り空が映っているフィルム
- わが町――JUSO EAST
- てっぱん
- ハインリッヒ・ハイネモ使ワナカッタ
- 石油ストーブ
- 汽車ごっこ
- 長スギタ電車
Ⅴ 一九四五年
- 一九四五年
- BUOY
- 春
- 郵船サイベリア
- ワッシャよ錆びよ
- 微笑
- みんな私につめたい日
- 遺留品――スケッチ・ブックから
- コーモリ傘をさした兵隊
- 気にかかる石炭
- 絹婚式
- てっぱん
- グラスのヒビ
- 誕生日
- 何処ノ空へ
- 流刑地へ時間をたしかめに行く
- N島のギャラリーで
Ⅵ 戦後初期詩篇
- ひろばの詩
- 雪
- 泥
- 父
- 暮色
- 孤独
あとがき