1994年5月、社会思想社から刊行された多田茂治による石原吉郎の評伝。写真は共同通信社。
昨年の夏、私は十五年戦争にかかわる二つの展示会を見た。一つは、「七三一部隊展全国実行委員会」による『七三一部隊展』(東京・新宿区民ギャラリー)であり、もう一つは、「ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会」の『極東シベリア墓参報告展』(川崎さいか屋)であった。いわば、十五年戦争における日本軍の加害と被害の代表的な記録である。
三千人にものぼると見られる非人道的な生体実験を行った七三一部隊の所業と、苦難の旅路の果てに異境の野辺に朽ちていった抑留者たちの生涯に、改めて粛然とさせられたが、戦争には必然的に加害と被害が同在する。多くの兵士たちが、ある局面では加害者となり、ある局面では被害者となって、人間性を阻害・喪失させられた。特に心やさしい人たちは、加害・被害の両面にわたって深刻な打撃を受け、深い心の傷を負わなければならなかった。
石原吉郎は詩誌の仲間だった大野新さんに対して、「いやな自分が、手で払っても払ってもついてくるんだ。ふりかえると、そこにいる。それを見るのがたまらなくてね」と語ったことがあるというが、無慚な言葉というほかない。彼は生涯、ラーゲリの「内なる有刺鉄線,に胸を刺され続けねばならなかった。帰国後間もなく死んだ菅季治、鹿野武一にしても、同様であったろう。私は本稿を書きながら、何度も自分に問いかけた。人間性を剥奪するこのような状況のなかで、自分は如何に生き得ただろうかと。たとえ生還し得たとしても、おそらく生涯、石原吉郎のように、自責の念と汚辱の思いに苛まれたのではないかと思う。そこに、本稿を書いた私自身の内面的なモチーフもあった。
取材にあたっては、鹿野武一の妹、登美さん、菅季治の弟、忠雄さん、菅季治の友人で、『友その生と死の証しー哲学者菅季治の生涯』という大著をまとめた田村重見さん、鹿野武一の戦友、堀田豊彦さん、友人の詩人、坂井信夫さん、石原吉郎と交わり深かった詩人の安西均さん、大野新さん、小柳玲子さん、エスペランチストの友人、加茂セツ子さん、などのご協力を受け、抑留体験者の高杉一郎さん、高橋大造さん、斎藤六郎さん、志田行男さん、その他多くの方の抑留記録、談話を参考にさせていただいた。なお、同郷の先輩でもあった安西均さんが、本書の刊行を前に二月八日昇天されたのは残念なことであった。
(「あとがき」より)
目次
序章
- 1 虚の顔
- 2 菅季治
- 3 蛙昇天
- 4 緑の板
- 5 鹿野武一
- 6 石原吉郎
- 7 開拓団
- 8 満州国崩壊
- 9 スターリン指令
- 10 通訳
- 11 食罐組
- 12 ストルイピンカ
- 13 人間の位置
- 14 失語
- 15 絶食
- 16 ダモイ
- 17 鹿野武一急死
- 18 ロシナンテ
- 19 風にもだえる木
- 20 H氏賞
- 21 望郷と海
- 22 告発せ
- 23 割腹
- 24 神の沈黙
- 25 海を流れる河
終章
あとがき
主な参考文献