わが文学の師 杉山参緑 日高三郎

 2012年12月、海鳥社から刊行された日高三郎(1946~)による杉山参緑の評伝。

 

 杉山参緑さんは大正十五年十一月十四日に夢野久作の三男として生まれ、平成二年四月十四日に六十四歳で亡くなりました。福岡市東区の唐原に住んで「生命派」の旗を掲げて詩を書いて、生前には生命社から『囁』『一匹羊』『鉄骨』などの詩集を出していましたが、没後平成二年十月に葦書房からハードカバー装丁の詩集『種播く人々』が出ました。
 わたしは参緑さんと昭和四十三年頃から十五年間ほど付き合いがあり、参緑さんに詩を習い、真似をして、仲間を集めて同人誌を発行していました。参緑さんは詩の師というより、詩を書く友人という感じでした。詩を習う場所は、天神など街中の喫茶店でした。細かい詩句のことより喫茶店でCOFFEEを飲んで、なにやかやしゃべっているうちに勉強になっていたようです。
 この本に詳しく書きましたように、出会ったのは昭和四十年代中頃ですが、世の中が比較的リベラルだった時代には参緑さんはペンネームとして「茶川影之介」を使っていました。それが、昭和五十二、三年頃から「葦原仲彦」となり、さらに「葦原中彦」に変わりました。ペンネームが変わる頃、世の中の変わり目があったようです。参緑さんは感覚が鋭敏でしたから、何か感じ取っていたに違いないのです。
 参緑さんはバプテスマを受けていましたが、風来坊といった方がいい人で、伝道する詩人であったのですが、伝道は詩の言葉の中に表現されていて、教会の信者を増やす行為としては実行されなかったようです。文学はもちろんですが、仏教や神道など色んな宗教、その他自然科学、社会科学などなど知識は豊富であり、話し始めるとどこまでゆくのかわからない人でした。生涯独身を貫き、生涯親元の傍を離れず、定職に就くことなく詩を職業と公言していましたが、ふところが原稿料で潤うことはほとんどなかったようです。それでも、詩を書き続けたのは十字架のイエスとのひそかな「約束」があったのです。その約束を立派に果たして逝かれたのです。
 今度この本を書くうちにわかったのですが、参緑さんはわたしたちが考える以上に父親の夢野久作のことを意識して育っていたようです。親子だから当然だと言えますが、父と違う道を選ぶ子の例はたくさんあります。父と同じ文学の道を選んで、父の書いた小説の主人公となっている自分を発見しているのです。しかも、その運命を甘受している。探るほど謎めいてきて不思議な人でした。
 参緑さんが亡くなってすでに二十二年が過ぎました。わたしは参緑さんのことを書こうと思いながら、仕事が忙しかったり、また別れ際が円満でなかったこともあり、悔いが残っていて
書けないでいたのですが、友人たちの勧めもあり、ようやくここにわたしの参緑像として、参緑本を出版することができました。この本はわたしと参緑さんとの約束だったようです。
(「あとがき」より)

 

目次

  • Ⅰ 生活亡命者
  • Ⅱ 出会い
  • Ⅲ 参緑の家
  • Ⅳ 学生たち
  • Ⅴ 生命科学研究と文学
  • Ⅵ 茶川影之介の詩
  • Ⅶ おおらかな羊の魂
  • Ⅷ 神話、機械論と生命派
  • Ⅸ 詩集『種播く人々』
  • Ⅹ X約束を果たす
  • Ⅺ 久作の小説と参緑

あとがき

 

NDLで検索
Amazonで検索
日本の古本屋で検索
ヤフオクで検索