2019年3月、鶫書房から刊行された光本恵子(1945~)の評論集。イラストは佐藤英里子。未来山脈叢書第203篇。著者は鳥取県生まれ。
本書は二十年にわたり、新聞「長野日報」紙に書き続けてきたものの一部をこの度、まとめたものである。
明治時代は文学も新しい気運に溢れていた。小説では言文一致運動により、森鴎外や夏目漱石、島崎藤村などは、できるだけその当時の話し言葉で小説を書いていたのである。そして、短歌の世界にもその動きが起こったのが明治から大正、昭和の初期であった。
欧米から「詩」の形式を学んできた文学者は何とか日本民族の伝統ある花鳥風月の短歌に、苦しみや愛をも表現できないかと考えた。そこで、口語歌運動が興ったのである。石川啄木もその一人であった。この運動は、しだいに、口語定型から口語自由律へと変化していく。そこで表記も、口語自由律歌を「新短歌」と呼ぶようになる。土岐善磨、石原純、前田夕暮、清水信、逗子八郎らが中心となって、様々な結社を作り、一九三七年版と一九三八年版『新短歌』として二年にわたり、年刊歌集を出した。
しかし、一九四一年から戦争が勃発し、自由に短歌を詠むことができなくなった。当局の厳しい言論統制に、これらの口語自由律短歌はほとんど壊滅に至ったのであった。多くの歌人が、沈黙するか、文語定形の伝統短歌に戻らざるを得ないこととなった。
しかし、戦争も終わり、新しい時代がやって来た。そこで一九四九年、宮崎信義を中心とする数名で、戦争から帰還した仲間に呼び掛け、その名もズバリ「新短歌」誌を創刊したのである。
一九六四年の夏、京都女子大学の学生だった私は、宮崎信義の「新短歌」に入会し、師事したのであった。
その頃、京都を中心に前衛短歌が華々しかった時代であったが、私も含めて関西の京都の学生たちが声を掛け合い、「幻想派」を結成した。そして、一九六七年十一月一日「幻想派0号」(発行人・安森敏隆)を発行するに至った。
その後、私は結婚して信州下諏訪に住み始めたが、その頃、絨毛上皮腫癌、敗血症、など複数の病に侵され、生きて退院できないだろうとささやかれたが、一年後に生還した。闘病記とともに第一歌集『薄氷』を出版した私はもうじっといていられなかった。
人生八十年とすれば、四十歳は折り返し地点である。一九八九年(平成元年)、「新短歌」支部として月刊誌「未来山脈」を信州で立ち上げて、口語自由律の短歌を広く世に伝え、多くの人々に知っていただきたいと歩み始めた。それからは、口語自由律の秀歌を遺さねばと古本屋で古い歌集をあさり、資料を集め、書き続けてきたのである。評論集『宮崎信義のうた百首』(短歌研究社刊)、『金子きみ伝』(ながらみ書房刊)、宮崎信義遺歌集『いのち』(短歌研究社刊)などはその一部である。
長年切磋琢磨して、時代に翻弄されながら心の叫びを詠んできた歌人のうたたち、埋もれそうになっていた歌人たち―。その一部がこのような形で『口語自由律短歌の人々』として世に出ることは最上の喜びである。
(「あとがき」より)
目次
- 西出朝風の口語短歌 (一)
- 西出朝風の口語短歌 (二)
- 花岡謙二とその周辺
- 北海道の口語歌人伊東音次郎
- 鳴海要吉の横顔
- 川窪艸太と石原純
- 鳥取県の歌誌「曠野」と稲村謙一
- 稲村謙一の児童詩と口語短歌
- 児山敬一について (一)――神への敬語
- 児山敬一について (二)―― 短歌と哲学
- 津軽照子の聡明
- 首里城の最後のお姫様
- 一九三三年版 『詩歌年刊歌集』と宮崎信義の改作
- 清水信歌集『朝刊』とその仕事
- 「短歌と方法」と新短歌の方法論
- 太田静子の「短歌と方法」時代
- 森谷定吉と逗子の町
- 原三千代の印象
- 藤井千鶴子歌集『盛京』のことなど
- 長谷川央歌集『野鴨』のこと
- 合同歌集『流線車』と平井乙麿
- 近江のひと津島喜一
- 柳原一郎の「くうき」
- 松本みね子との出会い
- 浅野英治の歌
- 宮崎信義の逝去
- 川崎むつをの反骨と漂泊
- 大槻三好の戦中戦
- 中野嘉一の思い出 草飼稔の詩精神
- 草飼稔の詩精神
- 口語自由律歌人 香川進
- 歌集『湾』と香川進の逡巡
- 前田夕暮編『詩歌作品』の作者たち
- 石本隆一のこと
- 高草木暮風断片 (一)
- 高草木暮風断片 (二)
- 炭光任歌集『旅鴉』と「炭かすの街」
- 幻の人 佐藤日出夫
- 松本昌夫の妻の歌
- 藤本哲郎の試み
- 大町の口語歌人 傘木次郎
- 伊藤文市の石の歌
- 田中収の歌
- 太田治子と六條篤
- 古川眞の人と作品
- 弦月の歌人 近山伸
- 逗子八郎と「短歌と方法」 (一)
- 逗子八郎と「短歌と方法」 (二)
- 宮崎信義と「短歌と方法」 (一)
- 宮崎信義と「短歌と方法」 (二)
- 抄滋郎のこと
あとがき
人名索引