1987年11月、荒地出版社から刊行された栗山脩の第1詩集。装幀は森本清水。
先日、歯科医院の帰りに芝西久保巴町の辺りを歩いてみた。すでに西久保巴町という町名はなくなっていて、虎ノ門○丁目○番○号という味気ない住居表示にかわっていた。森ビル・農林年金会館・IBMなどのビル群が所狭しと立ち並び、その間に数軒の骨董店が、昔の店構えをわずかにとどめながら取り残されたように散らばっていた。詩学社はどの辺りにあったのだろうと見回してみたが見当もつかなかった。
終戦間もない頃、詩学社は西久保巴町十二番地にあった。岩谷書店の経営で、城左門さんが代表となり、嵯峨信之さんと木原孝一が編集をおこなっていた。木原を知ったのは昭和二十五年十一月号の『詩学』に作品を書いた頃で、木原の紹介で「荒地」のグループに参加したのも、『荒地詩集』一九五一年版が発行される頃だからずいぶん古い話である。木原と一緒に昼食ぬきで、渋谷駅から会合の場所に歩いていったことを覚えている。会合場所は、当時、鮎川信夫が借りていた渋谷近くの寺社のこもり堂の一室だった。参加者の多くが年齢的にも私より先輩だったが、全員が若く覇気があって、個性に富んだ魅力のある作品を書いていた。
『荒地詩集』は、一九五二年版からメンバーの一人、伊藤尚志が勤務先の早川書房を退き、荒地出版社を創立して刊行を続けた。メンバーの数もふえていったが、一九五八年版をもって終刊となった。『詩学』もまた多くの若い有望な詩人を輩出して役目を終えた。私もおなじ頃、作品を発表するということから離れていった。なぜ離れたかと問われても返答に窮する。数十行を費やしてのべても、あるいは一行で済ませても、所詮おなじことのように思われる。
戦後四十年。荒地のメンバーも木原孝一、黒田三郎、中桐雅夫、それに鮎川信夫まで、まるで死に急ぎでもするように亡くなっていった。山之口貘さん、菱山修三さん……私にとってなつかしい先輩たちもすでに世にいない。
数年前、三好豊一郎が贈ってくれた詩集『夏の淵』のあとがきで、彼はつぎのようにのべていた。「私の詩が現代詩とどうかかわるかは関心の外にある。私は私のアイデンティティを私の詩に求めているだけだ」と。今の私には、この彼の言葉が分かるような気がする。私にとっても、詩は書きたいときに書きたい私の詩を書くということで、かかわりをもってきたからだ。
いまも私の脳裏には、東京一面に広がる焼け跡の残映がある。崩れたビルのがらんどうの窓枠から眺めた青い空がある。今日、この虎ノ門○丁目○番○号の地で、林立する高層ビルの狭間からきみはどんな空を眺めるというのか。
私は、このささやかな詩集に収載するための作品を選んでみて、期せずしてモチーフのよりどころを海や山に求めた作品が多いことに、あらためて驚きと戸惑いを感じている。そして、それなりの理由が私にあることを知っている。
最後にこの詩集を上梓するにあたって、伊藤尚志との再会に触れないわけにはいかない。私達は広尾の明治屋のテラスで長いこと話しこんだ。そして、荒地出版社が専門の分野でキャリアのある出版社として立派に存続していることを知って、ある種の感動さえ覚えたのだ。私もまた、私の仕事を存続させるため、多忙な日々を汲々と送ってきたからである。伊藤との再会がなければ、詩集『晩夏の日』が生まれたかどうか分からない。
刊行にあたり、装幀を引受けて頂いた森本清水氏、また、漢詩の韻脚について、私の問いに快く応じて下さった亜東協会の蔡素琴さん、その他、お世話になった方々にお礼を申し上げたい。
(「あとがき」より)
目次
Ⅰ
Ⅱ
- 見知らぬ友よ
- 好きな山
- 孤独の影
- 一人の山男
- 山もなく空もなく
- きみが山を好きになったら
Ⅲ
『晩夏の日』について 伊藤尚志
あとがき
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