
1967年7月、大光社から刊行されたなだいなだ(1929~2013)の短編小説集。装幀は赤坂三好。
私は、この本に、精神科医としての生活の中から題材をとった、二つの小説を集めた。両方とも、カタカナの題の小説である。
私は、ここで自己の作品の解説をするつもりはない。又、私がこの作品の中で何を書きたかったか、それについて書くつもりはない。この二つの小説は、かなり多くの月評にとりあげられた。それらを読んだ時、私は、私の意図を見破った、一部分でも見破った批評にめぐりあえなかったのを感じた。しかし、それはどうでもいいことだ。
読者が、トンネルに、トンネルの闇の暗さを、レトルトに、ガラスの実験器具の透明な軽さ、ガラス器具の表面にうつった世界の軽さを、文体を通じて感じてもらえれば、私としては満足である。何を書こうとするか、というものをのぞくと、私がこの小説を書く上で現実に苦しんだのは大部分そのことだからだ。成功したか否かは別として、闇の中を行きつもどりつする、よどんだ意識を、読みにくいカタカナで書き、われわれの平常の論理的に明析な意識を、ひらがなの読みやすい文章で対照させてみた。
レトルトの場合は医者が現在の患者との関係を、常に過去の患者との関係との間に二重にも三重にも、かさね合わせねば見ることが出来ない、そうした意識を、二つの別々な治療の挿話を繩のようにより合わせ、作品の中で一体化する形式をとることによって表現しようと試みた。
私は現実には臨床医でもある。医学と関係のある素材を小説に持ちこもうとする時、読者が、その素材の面白味にとらわれて、何でこの素材を取りあげようとしたのかが忘れられてしまうような不安を感じる。小説が、読者にとって、単なる床例報告にすぎないものと、受けとられる不安である。
私は、その不安から、話を作ろうとする。ウソを書こうとする。医学的には正しくないか→知れないが、小説としての正しさを持たせようと試みる。だが、医者の意識が、それほどデタラメも書けないと、その傾向にブレーキをかける。
私は、医者で小説家であることのムジュンを、医学と無関係でない素材を使って小説を書く時に、もっとも強く感じた。これは、私の内部の問題であろう。
ただ、読者に出来ようことなら、この二つの小説の医学的なデテールにとらわれないでほしい。それは、他の人にはもの珍しいことであっても、作者の私には、ごく日常的なことなのだから。そして、それは、素材、マチエールにすぎないのだから。木造の建物には素材が木材であることによる、レンガの建物には、素材がレンガであることによる、制限が必然的にある。だが、それを離れて建物を見ることが出来るように、この小説を読んでもらいたいのである。
(「あとがき」より)
目次
- トンネル
- レトルト
あとがき