
2003年7月、書肆青樹社から刊行された崔龍源(1952~)の第3詩集。装画・装幀は丸地守。著者は佐世保市生まれ、刊行時の住所は青梅市東青梅。
丘を越えると、藁葺きの小さな家々が、体を寄せ合う水鳥のように、一つの群落をなす父の生まれた村に着いた。二月のはじめ、田畑は薄い氷を張りつめて、春の遅い風土を顕(あらわ)にしていた。寒葱が、ところどころに寂しげにふるえ、しかし僕には、親しみ深い挨拶のようにも思えた。なぜなら僕は、日本の西の果てに近い海辺の町に生まれ、韓国の黄海に面した潮の落差の激しい父の故郷を、十八歳のその日まで踏んだことがなかったから。
僕の胸にこみ上げてくるものは、孜々(しし)として鍬や鎌を取り、その荒寥の地を耕す人々への共感と、その血を継いでいるという自覚だった。
幾ばくもせず、繁栄の酔いに慣れた僕の心身を洗ってくれるように、二十余軒の家々の戸口から、以前にも会ったことがあるような微笑を見せて、みんな血族だという人々が迎えに出てくれた。その中に八十歳を越えたその日まで、僕に一目会うことだけを祈り続けて来た白髪の祖母の姿があった。その澄んだ瞳から、いくつも涙がこぼれ、黄土に沁みていた。僕も泣いた。涙はとめどなかった。
その夜、歓迎の宴も終わり、疲れのせいか、僕はいつの間にか眠っていた。――僕は夢を見ていた。僕は、はてしない宇宙に浮かんでいた。野の原を翔けるように、僕は宇宙をはねまわっていた。翼あるもののように、小動物のように……。無数の星々は、野に咲く花のように思えた。少年時、僕はどんなに韓(から)の血をいとい、否定し去ろうとしていたことだろう。しかし今は、こんなにも自由だ。本当にこんなにも魂は解き放たれて、宇宙を翔けることが出来るのだ。そんな思いと不思議な飛行感の中で目が醒めた。
気が付くと、白いチマチョゴリの胸元に、僕を抱いて眠っている祖母(ハルモニ)の姿があった。その顔は微笑んでいた。しかし、その頬を流れ落ちている涙が、火のように光っていた。祖母は、何度もうなずいて見せた。そして、その手で僕の背を叩きながら、低くささやくように、韓の子守歌をうたうのだった。僕はみどり児。僕は先刻の快い夢を追い駆けるようにして、いつかまた深い眠りにおちていた。
目が醒めると、祖母(ハルモニ)は居なかった。外(と)の面(も)が白く輝いていた。窓を開けると、あたり一面、雪が降り積もっていた。その庭の隅に、水瓶に井戸水を湛(たた)えてゆく祖母の姿があった。すべてが透きとおっていた。すべての命は、祖母の水汲む姿に結晶してゆくようだった。僕は、昨夜の夢を不意に思い出し、その意味が解けたように一瞬思った。 あれは、あれは、祖母(ハルモニ)の愛の相(すがた)だった、と。その祖母も、それから一年足らずで逝った。一期一会のことだった。祖母は、貧窮ののち、黄土を丸く盛った墓になった。僕は、宇宙を遊行したあの日を、僕だけが信じていることだけれど、本当の愛の相(すがた)を忘れない。
この体験が、この詩集の題名の所以である。僕は、「崔」というペンネームを使っているように、父の祖国=韓国のことを思っている。そして統一という十字架を背負わされた朝鮮半島のことも。と同時に母の国=日本を愛している。愛するがゆえに、戦争の罪科を何も償うことなく過ごしてきた母の国=日本の姓を捨て贖いの道を自らに課した。〈祖国とはひかりを集め蝶集め子と戯るるこの野にて足る〉むかし書いた短歌だが、今も気持ちは変わらない。どんなに辛くても、生きてゆくことを半島の歴史が教え、どんなに苦しくても、愛することをこの列島に住む母が教えてくれた。この詩集を、母と、悲しい時や淋しい時に母の名を呼ぶ人たちに捧げたい。詩篇はすべて発表したもので、一部を変更、改篇、改題したりした。
(「あとがき」より)
目次
- 春
- ボーダレス・ブルース
- 時代
- 海辺で
- 鳥瞰図
- 東京物語
- しるし
- ぼくはここにいる
- この国の夏は美しい
- だが待て
- 水の記憶
- 民衆(ミンジュン)
- 朝鮮狼
- 祈祷篇
- エレジー
- 秋二題
- バラッド
- 日常抄
- 消息
- 森
- 失楽園あるいは…
- 海の奇蹟
- 詠唱
- 在りたい
- わが長きうた
あとがき