女木川界隈 田辺貞之助

 1962年7月、実業之日本社から刊行された田辺貞之助(1905~1984)の随筆集。装幀・カットは三井水一。

 

 江東地区を縦横にはしっていた江戸時代の運河も、いまは大方うめられて、残っているものはあまり多くない。そのひとつに、江東区を西から東へ一直線に断ちきって、隅田川荒川放水路とをつなぐ小名木川というのがある。この小名木川を、西から三分の二ほどのところで、十間川という別の運河が直角に切っているが、以前はそこが東京市の境で、十間川の東は南葛飾郡だった。砂村は北を小名木川で、西を十間川で仕切られ、東は中川まで、南は東京湾におよぶ、かなりひろい農村だった。この農村は十数の新田にわかれ、むかしは葛西三郎の領地、すなわち葛西領の一部であった。ぼくがこの本のなかでしきりに故郷の名をもって呼ぶのは、この村である。砂村は大正年代に町制をしかれて砂町となり、いまは江東区に属し、北砂町、南砂町にわかれる。ぼくが生れ、この本で語られているのは、主として北砂町五丁目、むかしの亀高新田である。
 大正の初期以来、砂町には、水運の便がよいところから、大小の工場がつぎつぎとたち、昔ながらの農村風景は次第に工場地区に変貌して行った。住民も土着の農民は影がうすれ、よそから移住してきた職工階級と、これを対象とする商店が圧倒的多数をしめるにいたった。したがって、以前の蓮田は片っぱしから埋立てられて、九尺二間のこまごまとした長屋がぎっしり建ちならび、いつしかみじめな貧民窟と化した。しかも、そのころから地盤の沈下がひどくなり、昭和の初期にはもう百馬力の排水ポンプをつかわなければ下水や雨水を排出できなくなった。町の周囲をまもる堤防は地盤沈下にともなって次から次へと上置きをすべく余儀なくされ、今では民家の棟よりも高くなっている。いともあわれな故郷の姿である。昔日の面影はまったくなくなってしまった。
 よく週刊誌などで、『我が故郷』と題して、知名の士がそれぞれ故郷を語っているが、その故郷は山間にせよ田野にせよ海辺にせよ、昔ながらの姿を保存して、風光明媚である。そういう記事を読むにつけ、ぼくははかなく消えさった、幼き日の故郷をしのんで、淋しくなる。幻滅の悲哀という言葉があるが、ぼくの心のなかにいまも生きている故郷のまぼろしは、もはやまったく滅びさって、現実には世界のどこの片隅にも存在しない。
 しかし、あの辺も、昔は閑静な農漁村であったらしい。江戸時代の読本(よみほん)にも「砂村の茄子」のことが書かれてあり、亀戸の大根や小松川の小松菜とともに、江戸市民の食膳をにぎわせた。また海岸では小魚類が豊富にとれたばかりでなく、風味のよい海苔をつくり、大森にお株をうばわれるまでは、砂村の海苔は江戸の珍味であった。いまでもあそこの海苔は格段の風味がある。
 こういうわけで、あの辺は夏の別荘地として知られ、大きな屋敷や庭園がいくらもあったらしい。著者がおぼえてからも、海岸ちかくの毛利家の下屋敷跡は昼でもひとりであるくのは気味がわるいほどのうっそうたる森だった。
 『武野俗談』という本には、深川あたりの岡場所へ、警動(けいど)つまり臨検がはいりそうだと噂が立つと、女たちをひそかに船にのせ、川づたいに、葛西領砂村六把島のこんにゃく橋方面へ逃がしたとあるそうである。そのこんにゃく橋は著者の若いときにはまだあった。
 小名木川筋には、鶴屋南北も住み、俳聖芭蕉もすみ、『女木川界隈』の項で書いたように、あの土手はこれら文豪の散策の地であったらしい。小名木川そのものも、千葉茨城方面から江戸への水運の要路であった。中川御番所の歴史を見ると、この川の当時の役割があきらかにうかがわれる。古い文書でしらべたら、なお面白いことがいくらも見つかるであろう。昔なつかしい川である。
 だが、この本の原稿を書いているとき、こういう消えさった土地の風景をいくら書いても仕方がない。むなしい絵空事とえらぶところがないではないかと、心のどこかでつぶやく声がした。それももっともなことである。しかし、もう一人のぼくはもはや知る人もあまりない故郷の姿を、せめて紙のうえにだけでも再現したい気持でいっぱいだった。そこでついにこの本を書きあげたが、まだ書きたいことが限りもなく胸のなかに渦巻いている。笑うべき老いの繰言ではある。
 なお、小名木川は古くは女木川とかかれたようである。現に芭蕉句碑にも女木川とあるので、この本の標題に借用した。いまは黒い濁水の帯と化した小名木川も女木川と書いてみると、昔物語の川のような、情緒あふれる野趣を思わせるからである。
(「まえがき」より)

 

目次

まえがき

・女木川界隈

  • 蓮田の四季
  • お神楽と万歳
  • 随想三夜
  •  第一夜 浜の話
  •  第二夜 ボンデン祭
  •  第三夜 夜づき
  • つなみ(一)
  • つなみ(二)(三)
  • 水屋
  • 呪いの歯
  • 魔の家
  • お稲荷さま(一) 
  • お稲荷さま(二)
  • 海坊主
  • 外道松
  • チーハー事件
  • 新巻の鮭
  • 御神輿献納
  • すしや
  • 郷土の味
  • 焼き場
  • 女木川界隈

・旅でひろった話

  • 心中
  • 涙片手に 
  • 嘘も方便
  • 浮気
  • 太夫さんのお茶
  • 要石
  • パチンコ
  • 国際結婚

・女性についての臆測

  • 女子学生
  • 新しい美人
  • お色気について
  • 女性が酒を飲むとき
  • よろめきのブームについて

・愚かなひとりごと

  • 迷信
  • 消える商売
  • 有り合わせの人生
  • 一生懸命が嫌いの弁
  • 引越の記
  • 機械によわい

・折にふれての思い

  • 試験地獄
  • つけやき
  • 溲瓶
  • ユーモワ礼讃

 

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