
1982年5月、永田書房から刊行された上野壮夫(1905~1979)の随筆集。装幀は李友唯。
夫上野壮夫が逝ってはや二年と七ヶ月余が経過した。上野壮夫は一九〇五年六月二日茨城県筑波郡作岡村(現在筑波町)大字安食で父警察官上野清二郎、母とくの四男一女の三男として生れた。家は小地主で小学校時代は父の任地先を転々として移り住んだが茨城県立下妻中学校に入学してから両親の許を離れ、筑波山麓の生家に帰り、同じく下妻中学校に通学する長兄二人とだけですごした。
一九二四年四月上京して早稲田高等学院露文科に入学しプロレタリア文学運動に熱中した。アナーキズム系の「黒嵐時代」や三好十郎を中心とする月刊誌「アクション」の編集に従事する一方、詩を発表した。一九二七年(二二歳)一月、前田河広一郎、青野季吉、葉山嘉樹、金子洋文、林房雄らと労農芸術家連盟を結成、書記長となった。このころより盛んに詩を書き始め、毎月のように「文芸戦線」「文芸公論」等に詩を発表した。「文芸戦線」は山川イズムと福本イズムの対立から分裂、林房雄ら五十二名が労芸脱退、新たに前衛芸術家同盟を組織しそれに参加する。そのころより益々深く左翼の実践と作家活動に入るようになった。一九二八年早稲田大学露文科退校を命じられる。その後戦旗社の編集に従事しながら詩、文芸時評、小説等「前衛」「戦旗」「新興文学」「大阪朝日新聞」等に発表する。
一九二八年十二月一日水戸歩兵第二連隊第一一中隊に幹部候補生として入隊し、翌一九二九年十月反戦活動をしたという理由で水戸二連隊を追放される。以後兵役とは無関係となった。一九三〇年五月同じ戦旗社出版部の小坂多喜子と結婚。
一九三三年大宅壮一の「人物評論」が発刊されるに及んでその編集に従事するかたわら「アサヒグラフ」「人物評論」等に執筆、当時の生活費は殆んど「アサヒグラフ」の小説の原稿料で賄った。一方では尾崎一雄の「暢気眼鏡」を「人物評論」に掲載し、尾崎一雄が世に出るきっかけをつくるなど編集に情熱をかたむけた。この年の二月小林多喜二の獄死に遭遇、悲惨な遺体をつぶさに目の前で見た。この年の春、淀橋区上落合の尾崎一雄、壇一雄共同宅向いの家に移転する。当時の生活は尾崎一雄の「なめくぢ横丁」に詳しく書かれている。
翌一九三四年三月プロレタリア作家同盟解散、この月上落合宅を引払い茨城の郷里に妻多喜子と都落ちして九月迄両親と暮した。四月、亀井勝一郎、本庄陸男らと「現実」創刊、第二次「現実」に「内部」を発表。
一九三六年二月武田麟太郎主宰「人民文庫」に小坂多喜子と参加した。一九三八年「人民文庫」連続発禁のため廃刊に追込まれる。十月花王石鹸株式会社に大宅壮一の親友、歴史学者の服部之総が重役をしていた関係から、その紹介でコピーライターとして入社、この間、「国民新聞」「若草」「令女界」「近代生活」「政界往来」「週刊朝日」「文芸」「帝大新聞」等に小説、随想、書評等を発表している。
一九四一年十一月、このころより戦争の気配いよいよ濃くなり、五十余の同人雑誌は紙不足のため「文芸復興」など八誌に統合され、日本青年文学者会を結成、その委員長となる。一九五三年九月、大木惇夫主宰「詩の座」に黒の時代(長篇叙事詩)を二十九年七月終刊まで一〇回連載。一九六一年花王石鹸株式会社を退社する前後から広告界の仕事に打込むようになった。日本デザイナー学院の学院長、東京コピーライターズクラブの会長に推され、一九六四年一月には広告制作会社株式会社U・P・Rを創立し、次第に広告界において活発な活動を成すようになった。だが後半生彼の胸の底には青年の日志向した社会改革の志が片時も忘れられず、脈々として流れており、若き日に政治に傷つき破れた挫折感が重い枷となって彼の心の底に沈澱していたことが、おびただしい文章類を没後整理している時によく解った。私がこの随筆集を出すことを決心したのも、その胸の奥深くにあたかも鍵でもかけるかのようにしまわれていたその遺志を是非つたえたいという思いがこみあげてきたからでもある。
(「編集後記・小坂多喜子」より)
目次
Ⅰ
人間の目
生きることと書くことと
革命の文学・文学の革命
文学という無償のもの
自分自身に問うということ
老けてゆく革命
私の中山晋平ぶし
「夭折」について 平林彪吾のこと
私の昭和十年
続・私の昭和十年
作家同盟のころ
同時代ということ
詩・小説・デザイン
Ⅱ
同人雑誌のあり方
おもえばよくぞ……
「われわれは明日どこに住むか」
偏見について
巨視と微視
問題意識について
生とは不透明な痛みだ
実用的ということ
何を私は考えるだろうか
孤独について
薄明の青天白日旗
Ⅲ
紅うつぎ
自戒
短篇的形式への疑惑
萬人の眼
市井談義
文壇
ジャーナリズムは作家を殺すか
小説について
生きることにも心せき
アメリカンスキー・ロマン
老けてゆく革命によせて 坂上弘
編集後記