
1968年11月、私家版として刊行された亀井斐子(1911~)の歌集。著者は亀井勝一郎の妻。
亀井勝一郎君のお葬式の日の斐子夫人は、人間の世で見る人妻の最も哀切な姿であると、その日の御様子が私の心に刻み込まれた。故人亀井君は思想の人、文の人としてのみでなく、人の師として、父として夫としてもこの上ない人柄であつたことが、その故に一層思ひ直され、その人がまことにこの世を去つたといふ念を新にした。
満二年ののち三周忌法要が東京護国寺で営まれたとき、挽歌をふくめた歌集を編んでゐるといふことを私に話された。夫君を歌の中に彷彿とさせることによつて夫人は立ち直られ、やうやく健康を取り戻したやうに見えた。悲傷の心は歌の中にその場所を移し、夫人の文業としての美しい世界を作つた。夫人の情熱は磨かれて歌となつたが、その歌によつて故人の姿はいよいよ私たちの心に明かに浮び上ることとなつた。
(「亀井夫人の歌/伊藤整」より)
四十一年十一月十四日未明、あれから私は一年余りを臥す日が多く、彼と共に自分の生涯も終つた気持でした。二年目になつてやつと、三回忌の捧げ物として、かねがね勝一郎から勧められてゐた私の歌をまとめる気になりました。そこに出てくる彼の姿、彼の愛した子供達の育ち行く姿がちらちらするこの歌集を仏前に供へるならば、喜んで貰へるやうな気がしました。
ただ彼のはげましを頼りに独りでほそぼそと作つてきた私の歌は、技巧もなく推敲も足らないデッサンばかりではづかしいと思ひます。殊に彼の歿後、短歌には盛り切れない哀しみはどうしても自然に長歌の形になりました。短歌の連作に頼らずに一首にひとつ想ひを高めて行くとすると、これより外にはないやうでした。四十九日頃、まだその気にならないのを雑誌「新潮」の勧めで作つたもので、いづれもなまで、我ながら不満ですが、今これらに手を入れるとその時点での哀しみがこはれてしまふやうな気がして、その儘にしました。長歌といへば、誰でも人麻呂の現人神讃歌の高い格調を思ひ出すもので、生活を歌ひながら、これを詩として高めるむづかしさを痛感しました。三十年も前の古い歌をノートから選び出すのも目の弱い私には大変なことでした。
それにしても、作歌の上で特定の師を持たなかつた私は、歌集作りに当つて心細くなり、どなたか相談に乗つてくださる方はと山本健吉先生にお話ししましたところ、近く井の頭に住まはれる宮柊二先生を御紹介くださいました。
歌壇のことを何も知らない私は猪突で行ひました。いきなりお訪ねしました。人の上に物の上に情の深い歌を詠まれる先生は淋しい私にも情をかけてくださいました。奥様ともども宮家の温い空気に触れることで私はだんだん元気になつてきました。一方では宇野千代様が私をはげまし続けてくださいました。
この集は御多忙の中を宮先生の御目を通しました。先生の御注意には深く考へさせられました。が、ここで自分のペースを崩すことを怖れて先生の御注意を無にして自分を押した所も多々ありますことを先生に御詫び申上げます。
序は勝一郎の親しかつた方々に御多忙と知りつつ御願ひしましたのは彼への供養のつもりからです。先生方の友情に厚く御礼申上げます。彼もさぞ喜んでゐることでせう。出版に当つては素人の私にこまごまと御世話をくださった井本務さんに心から御礼申上げます。皆様の御同情に守られて出来たこの本を三回忌に当り仏に捧げることが出来て嬉しいです。
(「あとがき/亀井斐子」より)
目次
序文 亀井夫人の歌 伊藤整
妻子さんの世界 山本健吉
哀しみ歌 『終ひ薔薇』 阪本越郎
詩人亀井斐子 神保光太郎
- 長歌試作 (昭和十二年)
- 母となりてはげむころ(昭和十三年より)
- 長い思ひと療養のころ(昭和十八年より)
- 戦況不利となりて(昭和二十年より)
- 敗戦とそのあと (昭和二十年八月より)
- 戦後の暮しの中で (昭和二十一年より)
- 夫の発病(昭和四十一年)
- 夫を失ふ (昭和四十二年)
あとがき