
1979年5月、常陽新聞社から刊行された木村信吉の詩集。装画は飯野農夫也。
このごろ、若い時代を振りかえるたびに何かほろ苦いものを感じさせられる。
懐かしいのは、昭和のはじめに横瀬夜雨先生を訪ねていった思い出である。私は先生から短歌の初歩を学び、次いで口語歌、自由律短歌を遍歴して自由詩に入った。そのころ中山省三郎さんに入懇を得たのは、省三郎さんが先生の許に出入っていたというよりも、弟の育四郎君が中学時代の親友だった機縁からである。
私は夜雨先生のすすめで、白鳥省吾氏の「地上楽園」に参加した。以来私の詩風はその影響を受けたもののようである。けれどもその中によどむ安易な感傷と冗漫な表現を超えようと鞭うったことも確かである。
この同人誌の廃刊後、私はささやかな個人誌を発行したが、この頃になると検閲がうるさく、処女詩集「開墾のうた」も削除や訂正を強要され、満身創痍のまま世に出た始末である。
当時のことはみんな忘れてしまいたい。ただ忘れることの出来ないのは、水戸の詩友たちとのつき合いである。昭和十三年の三月私は県内の詩友たちに呼びかけて「茨城詩人協会」を結成したが、その用件で水戸に出てゆくたび、よく厄介をかけた。今でも済まなかったとおもっている。
私はこれまで地方にいて農業に従事し、生活を基調に詩をつくってきた。その主意は自然のいぶきに同化することであり、野性に生きる周辺を確認することにあった。
このごろ農村も都市化が進むにつれ、このような詩情を追うものは少なく、また私のように泥くさい詩をつくるものはなくなった。けれどもこれまで農土に培われて来た私の個性は、どの様に枉げることも出来ない。おそらく生のある限り、この無愛想な詩神を追い続けてゆくことだろう。
いま半世紀にも近い詩歴を紀念し「秋匆忙」(昭和三十二年にまとめたガリ版詩集)以後の詩作から選びあつめて、表題の詩集を出すことにした。「茨城詩人」に発表したものもあるが、大方は未発表の作品である。
この詩集を出すに当って、これまで数々の恩恵を蒙って来た諸先輩をはじめ多くの詩友親友に対して、改めて謝意を呈したい。
詩友を代表して川野辺精氏と飯野農夫也氏から懇切な跋文をいただいた。更に飯野氏からは見事な装画をいただき、交友四十年にわたる両氏の心あたたまる励ましは何よりも幸とするところであり、幾重にも感謝を申し上げてあとがきとする。
(「あとがき」より)
目次
- Ⅰ
- あの頃の村落
- 除草
- いちまいの株田
- おがみたい代田
- 麦刈
- 農繁期
- あやめの花
- まげられる腰
- かなしい音
- かがみ
- 村落ぢうの水引
- 田の草から
- 怒りのように
- 鍬
- ぬれねずみ
- 収穫の夜
- さくきり
- お芽出とう
- へだたってゆく
- むなしい労働
- 流される
- 海の藻屑と
- 冷酷な結晶
- Ⅱ
- 業苦
- 存在
- むすびあい
- 無限
- 鴉
- ついてゆく
- 不動の石
- 懐疑
- おかれている存在
- 除草機
- みんなは行ってしまった
- 戸をたゝく風
- 送電やぐら
- 散文的な季節
- 見える時間を見向かぬ労働
- 世慣れたあいさつのむこうに
- 季節の跫音
- 対立
- 生きる屍
- 路上
- 旅客機
- 藤
- 村はずれの交差点
- 土管
- 接近
- たとえば紙凧
- 老農
- 吹きすぎてゆく
- 均らされる土
土の詩を讃える 川野辺精
わが心の木村さん 飯野農夫也
あとがき 著者