
1981年10月、新潟詩人会議から刊行された山田忠治の遺稿詩集。表紙はやまだただと。新潟詩人会叢書。
山田忠治の詩集がやっと出る。彼が死んでもう何年になるだろう。清水マサさん経由で彼の遺稿227篇、私のところにとどけられ、山田漠さんと幾晩もかけて取捨選択し、一冊の詩集にまとめあげ、次男のやまだただとさんと出版の相談をしたときからもう四年経つ。こんどひょんなことから新潟民主文学の事業の一環として、新潟詩人会議叢書の名で出版され、やっと日の目を見ることのできる詩集、一人でも多くの人に読んでもらいたくてこの一文を書く。
戦後、新日本文学会の系統の詩誌「コスモス」があった。金子光晴、壷井繁治、田木繁、小野十三郎、秋山清、岡本潤、なんて人々がいて、投稿者の中に安西均、永瀬清子などもおり、その中で重要な活躍を山田忠治はやっていた。そういう人である。二十年前にこの詩集が出ていたら、絶対に日本の革新の詩運動に大きな影響力を与えたに違いない、と私は確信している。現在の目で見るとややテンポが遅いが、あの時代の詩は誰のもあの速さしかもっていなかったのだ。彼はスローガンや理想をなかなか絶叫しない。かわりにじっくりと対象を描いていく。だから今読むと、昔の報道写真のスナップを集めた本を見るような、なつかしさを感じてしまう。栗の木川には木橋が掛かり、梅雨の晴れまにはらんかんが蒲団の干し場になり、西堀の桜に潮のにおいのする風がそよぎ……。東京の詩人たちは彼は田舎にいて、よくわかりもしない連中にこれが好い、悪いなどと批評されてそれでこまってる。などと批評をしていたが、彼は首切り反対から自主管理闘争、それを支えるための行商、相次ぐ子どもの病気、といった状況の中をのたうちまわりながら、しかし不思議に明るい詩を残しつづけていった。彼こそ、真の意味で豊かな詩の環境の中で生きぬいたのだ。
「雪国」「詩のなかま」「オール新潟」そして「季節風」、新潟の革新的な文学運動が起きてはつぶれの不幸な歴史をくり返している間中、その支え手として彼の名があり、作品があった。若いころの、おのれの経験に視座をおいた詩から、次第に彼は運動の語り部の役を務めるようになり、そのさなかに病にたおれ、不帰の客となった。彼の文学歴のほとんどは忘れ去られ、遺族すらもそのいきさつを聞いていなかった。ただこの一冊がかろうじて彼の記念碑となる。繊細なふてぶてしさ、それはリアリズムとは何なのかを我々に教えてくれる、現在の眼から見て、なおも確実に教えてくれるものをもつ、日本の革命的詩文学の、まぎれもない遺産なのだ。
できあがる、となるとさすがに感慨が湧く。載せたくて、ページ数と相談しては首をひねり、愛していったあれこれの詩篇に対する未練がある。富樫さんが「南天の実」という作品をあげられたが、その作品、われわれの手もとになく、富樫さんの手もとにもなく、ただ、彼の心の中にだけつややかに光りつづけている。(この原稿が載った「詩のなかま」お持ちのかた、ぜひ教えてください)そういう美しいものを、まだいくつも、われわれは拾い残しているに違いないのだ。
一九八一年七月「はまぼうふう」6.23の原稿に補筆したもの。
(「編集後記/加藤幹二朗」より)
目次
山忠さんの思い出 富樫昭次
・沼垂詩集
- しつげん地帯
- くりの木川
- 少年と母
- 女の心
- 熊の杉八百屋のあねやは働きもんだ
- 日の出竹駒町ふきん
- 女の心
- 熊の杉のいえもちゃのあねやが死んだ
- すりつぶされた人達
- 港の記録
・薪のない冬の職場
- 薪のない冬の職場
- 七百ミリヴルブと十一人
- あかいストーブと三人
- 仮眠所
- 能面
- 駄々っ子のうた
- 夜光
- どろ
- 春雪
・春はまだ浅いけれど
- むらがる五人と赤ん坊
- 忠音(ただと)とねむる
- 夜が来て
- 娘の顔
- すみ火とくらやみ
- たきたてのめし
- 春はまだ浅いけれど
- もうすぐほのじろくなるだろう
- ゆるされるならば
- 今夜は満点
・煙草と彼と
- 麦のうれた路を
- 学習会の仲間が呼んでいる
- 煙草と彼と
- 五〇六・四の夜
- ほこり
- あの男
- 通勤路上
- 少女
・三毛の爪あと
- 笛
- 塔の上で
- 一枚の写真
- 送別の詩
- その眼にあいさつを送る
- 三毛の爪あと
- 僕はその娘さんを見た、話をした
・リンゲルをうちながら
- あれから十年
- 序章
- 濁川小学校校庭にて
- 鐘について
父、忠治について やまだ ただと
編集後記 加藤幹二朗