
1997年7月、禱の会から刊行された中村薺(1931~)の第1詩集。著者は小松市生まれ、刊行時の住所は金沢市北町。
これは私の第一詩集である。
ぐずぐずと年をとってきた私には、金井直氏によって発行(一九八九年)をみた詩誌「禱」に據ることができたのは、とてもありがたいことであった。
それにしても、PART(Ⅰ)に書いた出来ごとがなかったならば、生来の怠情から詩集は編まずじまいになったであろうとおもっている。PART(Ⅱ)の作品は、ここ七、八年の間のものから拾った。
ここで、PARTIIについてすこし書き足しておきたい。
一九九三年(平成五年)五月二日夜、当時六十九歳であった夫は、旅行中の北京で憩室炎の壊疽から腹膜炎を起こし、翌三日(日曜日)の午後、入院先の中日友好病院において手術をした。
手術あとは順調に恢復したが、心臓がかなり衰弱しており、ずっと不整脈が続いていた。二十四、五日間いたICUから十四階の個室に移ると、気管切開後にあらわれた幻覚症状がいっそうひどくなった。最初三、四日は夜も付添っていたが、見るに見かねた龐さんは、夜だけの付添いを見付けてきてくれた。だがそれでも深夜に呼び出されることがある。
その夜も三時ごろ、龐さんあてに呼び出しが掛かった。すぐ身仕舞をして裏門から暗い大通りに出る。朝粥を出す店の煉炭の焰が、かなり遠くから見えた。二人とも黙って、森閑とした病廊をこ走りにゆく。夫は便の袋を外して床に放り出し、抜きとった導尿管でベッドの枠をぴしりぴしりと叩きながら怒っていた。体が熱い。水枕を替え、額に濡れタオルをあて、寝巻を整えながら私は言い知れぬ不安に耐えている。彼はあえぐように、
「窓を破って四人組がきた。逃げるにも逃げられず、防ぐものがなかった」
と言っているうちに注射が効いてきて、眠り込んでゆく。ポカンと口を開けて、欲も得もないところに漂いでていた。
頭陀袋に押し込んででもとおもっていた日の朝がきて、てきぱきと段取りが進む。欧州救急中心の要請で、シンガポールから医師と看護士が到着する。病人を固定するベッド作りが始まる。万一に備えての酸素は二リットル。ベッドごとストレッチャーに乗せられ、空港の待合室から「北京国際空港」の文字を見た夫の両眼に、病院生活では見られなかった生命を夢みるような色が動いたのを見たときは、一ヶ月の滞在が報われたとおもったことであった。
このあと八月下旬に夫は永眠した。この詩集を彼に捧げる。
(「あとがき」より)
目次
Ⅰ 北京日乗
- 痩せてゆく日
- 老蝶
- ひだる神
- 砂の精霊
- まぼろしの橋
- 和平里東街にて
- 乾いた領土
- 華北平原の旋律
- またしても
- 寂しい光彩
- かの方角へ
- ひとりだけの後列
- 微光
- 爽味時(あけがた)の跫音(あしおと)
- 夏の闇
Ⅱ 径庭
あとがき