
1985年11月、不識書院から刊行された山崎方代(1914~1985)の遺稿歌集。装幀は梶山俊夫。
この『迦葉』は、故山崎方代の昭和五十五年から五十九年に至る短歌作品を集めたものである。『方代』、『右左口』、『こおろぎ』に続く第四歌集ということになる。その制作期間は、万代六十六歳から七十歳に至る、ほぼ五年間に当る。
これが、方代の終(つい)の集で、しかも遺歌集になってしまったことは、何とも口惜しいことではあるが、それも、致し方のない運命であったのかも知れない。この八月に再入院した国立横浜病院のベッドで、方代は、この歌集の誕生する日を、ひたすらに待望していたのであった。しかし、作者としての方代個人について何事かを語るのが、わたしの目的ではない。それより、この歌集が、作者の創造全体の中で占める位置について、いささかの心覚えを記しておくことが、わたしの務めであろう。
方代が、その短歌によって、これまでにない一つの世界を創造したことは、すでに広く知られている。これは、実に大したことだと言わなければならない。多力なる、有能なる作者になることは、あるいは可能であろう。制作技術の研究において、他を凌駕することも、いにしえより、その例少なしとしない。また、社会思想やら人生観やらの上で、今日有用の言説を短歌的叙情にとり込むことも、その程度の文学志向をいだく作者にとっては、さほど困難な達成目標ではあるまい。しかし、曲りなりにも「世界」とよび得るような、文学的に一貫した全体を創出するということは、そう誰にも出来ることではなさそうに思われる。
このような「世界」を方代が創ったからというので、その短歌を、「方代短歌」の名で呼ぶ人々がいるが、わたしは、その呼び方には強く反対を唱えたいと思う。何故ならば、こういう手っとりばやい括り方の底からは、万代の作品を、一種風変りな、いわば特異現象、「異色」として分類しようとする含意が響いてくるからである。この見方をすれば、評価はもっぱら好みに任されてしまうことになる。つまり、この「風変り」が好きで堪らぬという読者が一方にいるとすると、もう一方に、そんなものは、いくら面白くとも、単なる変り種に過ぎぬとする反対派がいつも渋い顔をしていることになる。どちらにしても、山崎方代の文学に対する大いなる誤解に基づいている。
一般に考えられているより遥かに、方代は意識的な作家であった。それは、自分の作品世界の中に「方代」という象徴的な主体を設定して、さらに、その主体を現実生活の中でみずから演じて見せたという、それだけのことではないのである。「方代の運命」とでも称すべきテーマを生きることを、この作者はつねに自分に課したのであった。こうした先取りによって、彼は「作中の方代」を産み出すことが出来たのである。方代は与えられた境遇だとか、おしつけられた人生だとか、もしくは、それらに照応する外界を、無意味に写し取って歌にするような受動的な作者では、まったくなかった。これほど意識的に能動的に、自分を自分たらしめた作家は、ちょっと珍しいのではなかろうか。
ここに方代の創造の文学的普遍性があったと言ってよい。要するに、それは、風変りな特異現象という意味での「方代短歌」などという考え方とは、縁もゆかりもないものである。現代文学にとって、根本的な意味をもつ探究が、そこに存在したことを、この際、わたしとしては言明しておかねばならない。
当然のことではあるが、こうした探究は、堅固な方法論を確立せずしては、推進することが不可能である。そして、万代は、みずから立論こそしなかったが、方法については深く考えるところがあったのである。その方法論を、整理すると、次の二方向に要約できそうな気がする。
(a)虚構(フィクション)。方代は、これを「ほんとの嘘」と言った。「拵えもの」ではいけないと言うのである。要は、必然的な根拠あるフィクションを方代は考えたのである。その「根拠」は、万代が方代を生きることによって保証されるであろう。
(b)叙事詩的性格。方代は幼時より『甲陽軍鑑』を耽読し、今日も作歌上の座右書としていることを告白している。これが、いわば「方代のホメロス」で、日常の経験、事物を元型化して感ずる基盤になっている。ここから、方代の作品は、全体として一つの叙事詩としてよめる形に、次第に成長してきているのである。
a、bの両面が、相互に透し合い、融合する性質の方法なことは間違いない。そして、どちらか一方だけでは、不完全で、脆弱であることも明らかであろう。〈a+b>の方法を、方代は実作によって一歩一歩確かめながら、長い間かかって、完成してきたのであった。方法の完成は、万代にあっては、直接に作品の深化であり、純化であった。この観点から見るならば、この歌集『迦葉』は、方代の文学の高度の達成を示すものである。
方代が独立で考え上げた、この方法論は、驚くほど進んだものである。それは、二十世紀の文学理論および文学批評の新しい展開に照らして見ても、少しもおかしな所がない。立派な根拠をもった論と言ってよいのである。この点から考えるなら、方代の文学は、今日のわが国の文学全体の中でも、きわめて重要な意味をもつもので、永く生命を持ちつづけるだろう。そう言っても、わたしの仲間びいきにはなるまいと信ずる。
方代が、その「叙事詩」によって語ろうとした内容については、わたしは述べない。また、彼が方法の実現のために、どのような言語組織を考案したかについても、ここで解説を施すことは避けたいと思う。それらは、読者がみずから発見し、楽しむ所だからである。『迦葉』の五年は、方代の「うた短歌会」時代とよんで差しつかえないかと思う。「うた」創刊から二年間の作品は、前歌集『こおろぎ』に収められているが、その後「うた」に発表されたものは、すべてここに収められている。わたしは、毎号の締切には、必ず連絡の使者を立てて、万代に作品を強要した。それで、この集の約半分は、わたしの方の雑誌に発表した歌という結果になっている。方代自身、ある時、「無理に作らされて、仕方なく作った、あれ良かったよ」などと述懐した。そんなわけで、万代は、この集の編集をわたしに依頼する気になったのだろう。
方代は「うた」に作品を発表する際には、会員の規矩に従って、歴史的仮名づかいを用いたが、この集においてはすべて現代仮名づかいに統一することにした。方代の用字、用語には、折々、異様なものが見える。しかし、それらは、それぞれ淵源するところがあるので、一切訂正を施さなかった。ただ明らかに誤記、誤植と思われるものは、ごく僅かであるが、これを訂した。
発表時を異にする作品中に、まったく同一の歌が含まれている場合は、一般の習慣に従って、一方を抹消した。しかし、きわめて類似した発想ながら、やはり別の歌だという場合は、すべて保存することにした。方代の方法において、この類似歌の存在は大切な意味をもっていると思われる。
歌集名は、作者が、最後の病床にあって、みずから名づけた所である。右左口は、峠の名で、山としては「迦葉山」と称するのだという説明であった。
原稿の作製には遠山景一が当った。歌集出版についての万般を不識書院にお願いした。
(「解説/玉城徹」より)
目次
- うの花が咲き出しにけり
- かりそめにこの世を渡る
- 銀杏の実
- 六十になれば
- 鼻
- 葡萄の種
- 橙
- 夢一夜
- 手作りの豆腐
- 呼んでいる山鳩
- 薤
- 白い洋服
- たまごの歌
- 蓋
- 明石のひと
- 蕗の薹
- 浮世
- 綿の畑
- 雛がかえった
- 一筆啓上
- ネルのうた
- 鮭
- 名刺
- いちご
- 鉋
- 桃の花
- 杉苔
- 藪柑子
- 何処かで
- 人物
- 辛夷の花
解説 玉城徹
〔付載〕方代の巻末記案