
1997年12月、本阿弥書店から刊行された渡辺松男(1955~)の第1歌集。装幀は海保透。かりん叢書第112篇。著者は群馬県生まれ、刊行時の住所は群馬県新田郡。
言葉はそれだけで自律した世界にあるが、同時に言葉を生みだしているのはこころである。言葉がなければこころはないのかもしれないが、こころがなければ言葉はない。そして私はすこしだけこころの方に重点をおいている。そういう素朴な位置に立っているのだ。
週末は歩く。赤城や榛名、尾瀬、草津や浅間周辺の山々である。登山ではない。朝早くから、双眼鏡で小鳥を見たり、名前を知らない花をスケッチしたり、そんなことをしながらゆっくり歩く。何時間でも歩けるのだ。いつしか歩き疲れて空を見れば空のようなこころと思う。木を見れば木のようなこころと思う。そしてまた歩き出す。そういうときが幸せなのだ。しかし私はいつしかもっと端的に空そのもの、木そのものを感じられるようになりたいとも思っている。
一方で私は、現実の社会、例えばゴミを集める人、トイレの掃除をする人、捨て犬ガス室へおくる人、病むひとびとを強制入院させる人、死刑を執行する人、それこそ様々な人がいてはじめて成り立っている社会のことを思う。社会のために私は大したことを何ひとつできないかもしれないが、無理にでもそこに身を置いておかなければ嘘のような気がするのだ。家の水道の配管ひとつ動かすことも自分ではできない。そんなあたりまえの事実の部分に自分を繋ぎとめておかなければ、こころが痩せていくように思うのだ。
私は鈍いから、どうもうまくいかないけれど、あっちに揺れこっちに揺れしながら、結局は私なりにやっていこうと思っている。
子供のころ木になりたいと思った。梢にそよぐ葉のように気持ちよくなりたいと思った。そして忘れて大人になった。ふたたび木を思い出したとき私はすこし病んでいた。木と程遠いところに自分がいた。なぜ歌をつくりはじめたかは自分でもわからないが、ふたたび木のそばにいたいと思いはじめた時期と歌をつくりはじめた時期とはそう離れてはいなかった。以来、自分のためにだけ、歌をつくってきた。それを思うと恥ずかしい。だから歌をつくっていることは人に向かっては何の自慢にもならない。ただ私はもう一人の自分を思うのである。歌をつくっていなかった場合の自分である。歌に係わることもなく生きているもう一人の自分のこころのうちを思うと、その自分に対してだけは、俺は歌をつくっているぞと言ってすこしだけ自慢してみたい。
(「あとがき」より)
目次
Ⅰ
- 地下に還せり
- 橋として
- 八月十五日うつそみ
- パーフェクト・エッグ
- からーん
- 『精神現象学』
- 愁嘆声
- 寒気氾濫
Ⅱ
- ろっ骨状雲
- 宙宇のきのこ
- 夢解き師
- 音符
- 鉄亜鈴
- 非常口
- 眉間
- 単独者
- 光る骨格
- 非想非非想·
Ⅲ
Ⅳ
- 明快なる樹々
- 半眼
- 冬桜
- 睫はうごく
あとがき