浪々 巌浩歌文集

 2011年2月、弦書房から刊行された巌浩(1925~2019)の歌文集。著者は大分県津久見市生まれ。元「日本読書新聞」編集長、元「伝統と現代」発行人。写真は巌瑠璃子

 

 私の最初の本が、このような形にでき上ったのは、熊本の渡辺京二さん石牟礼道子さんたちが二〇○一年に始めた季刊雑誌『道標』のおかげである。
 前の方で簡単に述べたように、私は一九八四年(昭和五十九)の夏から労務者暮しに入ったのであって、それは奈良に移住してからもつづき(「春日の森へ」等)、その七、八年の間に、東京で多年過ごしたジャーナリズム関係、文化関係とは、全くと言っていいほど切れていた。
 わずかに、九九年(平成十一)頃から、或る小さな短歌会に誘われて、自己流で少しずつ歌らしきものを作るようになった。それは、労働生活を切り上げて数年ののち、家内も死んで三年ほどの時期であった。することがなく、ひとりにもなった、その気晴らし程度のことであっただろう。
 さらにその短歌会の某教授氏のすすめで、かのアララギの系統をひく結社の一つという三重県津の「アララギ派」の会員になった。だが私は茂吉も「赤光」と「あらたま」を読んで感銘していただけの人間で、この派の作歌方針などとんと無関心で、やはり自己流でやっていたにすぎず、赤彦の「鍛練道」、茂吉の「実相観入」とか聞いても、短歌にそんなおごそかな心がけが必要なのかねえと首をかしげるばかりで、まじめに勉強しようとは思わなかった。
 言いっ放し、書きっ放し、行動しっ放しの私に、旧作・新作を問わず数十首ずつ自選でまとめて出してみないかと、渡辺さんが言ってくれたのである。その気が動いて、はじめて「道標」に載せてもらったのは二〇〇五年(平成十七)春(8号)の「花綵列島」、次がその年の冬(11号)の「柘榴が笑う」。この二つは前後の順序もなく、なかみの歌群が名乗った題にすべて添うものでもないバラバラの三十首、三十二首であった。
 それから翌二〇〇六年冬(15号)の「航海のはなし」以後は、前から少し興味をもっていた"歌ものがたり"ふうなもの、ところどころに小さい文章をつける形にして毎号つづけ、二〇〇八年秋(22号)の「酒をのむ」で連載は終った。「航海……」の項は、船中毎日欠かさずつけていた日誌も活用した。これには、わりとことこまかに事実と気持が書き込んであった。
 今回一本にまとめるに当って、先ず最初の二項目は、もともとバラバラだった歌群を他の諸項目に振り分けた。その上で、あらためて「花綵列島」の項を設けた。個々の短歌で今回捨てたものも、新しく入れたものも、少しはある。最後に「近頃みやこで……」と便宜的の項目をつけてみた。
 随想五題のうち「奈良・沼津拾遺」は同人誌「丁卯(ていぼう)」二〇〇三年秋(19号)、「天龍の山峡で」「諏訪湖のほとり」「サルカニ合戦」は歌誌「アララギ派」二〇〇二年十一月・十二月・二〇〇三年一月各号に掲載、「老犬と猫」は週刊の『日本読書新聞』一九六一年一月十六日号と三月二十七日号のコラム「有題無題」から。
 本書で鳥、けものがわりと多く出てくるが、私は殊に狐というやつに勝手に感情移入してしまうくせがある。どうもそれは、かなり昔から読んできた柳田国男の動物園、中でも狐ばなしが面白くて、その影響もあろうかと。――立派な侍に化けたつもりの狐が、茶店の亭主の差し出した金ダライの水に映る自分の顔を見て己れの未熟さに気づき、驚き走り去った翌日、山の道で亭主の喜兵衛さんに「昨晩のをかしさ」を言って笑い合った、とこういう話のたまらなさ。狐神、狐憑き、狐飛脚、狐女房、狐火などなど、キリもなく豊富である。
 それから、ここ数年来、蕪村がけっこう狐を詠んでいることを知って、うれしくなった。「公達に狐化けたり」とか「狐火の燃えつくばかり」とか。たしか「草枯れて狐の飛脚通りけり」というのも蕪村ではなかったろうか。
 しかし、考えてみると、そういう心情の動きは、幼い時に体に沁み込んだ感覚がもとになっているのじゃないのか。夜、しばしば狐が近くの雑木林で啼くのであった。「ありゃあ、子を呼びよるんじゃ」と母は言っていた。
 十八、九歳の旧制高校生のころ、寮誌に十ばかり短歌を出したきり、以後五十年以上の空白期間。或る日その私を、ともあれ歌を作るここ十一年ほどの新しい歳月に引っぱり込んだのが、さっき言った某教授氏、奈良の帝塚山短大の故・猪股静彌さんであった。津の結社の主宰は常磐井猷麿さん、の人は真宗高田派本山の法主である。野放図な私を、まぁ、気ままにさせてくれた。氏と共に数選者であった故・長森光代さんは、特にあれこれと月々に声をかけてくれた。
 高等学校のとき、私の子供っぽい短歌を見て、われわれ柔道部の同期主将で鋭い文才の持主東郷二郎が「おいおいもすこし色気のあるのを作れや」と批評した。私は奮起して新しく一首作った。「一応イケてるねえ」と彼は言った。私より二つ年上、東北大から東大経済に転学してきて、二人で力仕事のアルバイトに精出した。彼はマックス・ウェーバーをよく読んでいた。のちに旭化成専務忘れ難い故人である。
 表紙や各項の中扉に使った写真は、亡き妻瑠璃子の撮影。それらを弦書房小野静男代表が装丁に生かしてくれた
(「あとがき」より)

 


目次

  • 航海のはなし
  • 花綵列島
  • 原郷の景色
  • 鳥獣図
  • 駿河ノ国 原ノ宿 松蔭寺
  • 春日の森へ
  • 奈良残日――此岸と彼岸と
  • 兵隊暮し
  • 酒をのむ
  • 近頃みやこで思うこと
  • 随想五題
  •  奈良・沼津拾遺――「何でも屋労務者の記」のうち
  •  天龍の山峡で――ひとさまのふるさと
  •  諏訪湖のほとり――「悲報来」茂吉・赤彦のことなど
  • サル・カニ合戦――首をハサミキリマシタ
  • 老犬と猫

あとがき


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