
1983年7月、渓水社から刊行された小久保均(1930~)の短編小説集。装幀は入野忠芳。著者は朝鮮生まれ、刊行時の住所は広島市南区。
自分の書いた作品が雑誌に掲載されると、私も一度は読んでみる。しかしそれきりである。二度と読まない。このことを指して、どこか不自然ではないかと言ってくれる友人があるが、この習慣は改まらない。
私の言い分はこうである。私はその作品を、その時点における「必要」の上に立って書いたのだから、時点の移り変った現在、その作品はもう私には「必要」でない。読み返すことで、そこから何らかの作用を受けたりでもすれば、百害あって一利なしだ。
この考え方には一つの欠陥がある。読者をどう考えるかという視点が抜け落ちている。せいぜい人間の一人であるという資格しか持たない私の、しかも一過性の「必要」にもとづいて書かれたものを、私は他人に読ませようとしているのだ。先の友人は"不自然"ではなくて"傲慢"と言いたかったのかもしれない。
そういうわけで、本書を編むに当って、私は収録すべき作品を入念に読み返してみた。あくまで読者の立場に立って、とわが身に言い聞かせて読んだ。警戒することはなかった。古い作品では七年、新しい作品でも三年、それだけの時間の距りをおけば、いやでも他人の眼で眺められるというわけであった。
よろしい、これで行け。読み返してそう思ったといえばいい気なものと笑われるだろうが、私が最も危惧する一貫性の欠如がここにはなかった。折々の「必要」に応じて書いた、題材も形式もさまざまな五つの作品が、思いもかけず私には一列に並んで展開する陣型に見えた。私は自分で思っているほど多様性に富んだ男ではなかった。
五つの作品に一貫するものを広告する場所でここはない。ただ言えるのは、これらの作品の作者が、人間というものは無意味なことは一つもしない、言い換えれば、人間のすることは当人にとってはすべてかけがえのない重要な意味を持っている、と考えているということだ。人間は奇矯なことも、無益なこともしない。人間はつねに最短距離を、無駄なく、まっしぐらに生きている。
こう考えることは「必要」だ、と私は思う。そしてこの「必要」の上に立って書くのが、今も昔も私の仕事だったのである。いま私は、折々の「必要」が私に書かせた五つの作品が、他者である読者の「必要」にどれだけ応え得ているかを問われる場に立っているのである。
(「あとがき」より)
目次
- 漂流
- 風の十字路
- 島の中
- 火の幻影
- ひとりの海
あとがき