落花落日 坪内稔典句集

 1984年6月、海風社から刊行された坪内稔典(1944~)の句集。著者は愛媛県生まれ、刊行時の住所は箕面市

 

 この集の句は力作である。力作ではあるが、どの句もりきんで書いたわけではない。作者は七転八倒し、しかもその結果がことのほかに爽快であったことにおいて、これは、俳人・坪内氏の力作なのである。
 坪内氏は三十九歳、すでに中年である。趣味と言えるものはまったくない。ゴルフ、釣り、囲碁将棋、麻雀、いっさい駄目である。車の運転もしないし、今はやりの健康のためのスポーツなどにはとんと関心を示さない。強いて趣味に近いものをあげれば、暇をみつけては眠ることか。ときには一日に三度も四度も眠る。
 それでも二十代のはじめの一時期、パチンコに凝り、十三、尼崎、伊丹、三宮あたりのパチンコ店に精通した。結婚したのはその頃で、妻はアパートの廊下に捨ててあるコカコーラの空瓶を集めて売り、朝のパン代や夜の銭湯代をつくった。なんという美談であろうか。
 趣味はないが、人なみの生活能力はあるかもしれない。二人の子供が育っているし、身に余る借金をして小さいながらも家まで買った。火葬場の煙突の見える家だが、眠るには静かで都合がよい。猫の額ほどの庭には、春には桃が、夏には胡瓜が、秋には金木犀が、冬には椿が花をつける。運動不足の紀州犬がそれらの花木をがりがりかじる。
 こんなふうに坪内氏について書きはじめるときりもないが、一九八二年三月七日、母が亡くなった。その母の死は、あるいはこの集のひとつの核になっているかもしれない。死は厳粛な事実であったが、意外にもまたそれは、自在さへの志向を作者のうちで強めたようだ。認識や感覚をつとめて自在にしようとする試みが、死という厳粛な事実を受けとめる、その受けとめ方であった。
 一九八三年七月八日には、俳人高柳重信が亡くなった。坪内氏の処女句集『朝の岸』に序文を、評論集『過渡の詩』に推薦文を寄せているこの俳人の透徹した認識の前で、坪内氏は常に緊張していた。その緊張を発条にして、高柳とは異質のことばを発見することが、いわば至上命令にも似た坪内氏の課題であった。
 ことばはどこで発見できるだろうか。すくなくともその発見の場は、『新体詩抄』や『小説神髄』がもたらしたliterature(文学)の内側においてではない。俳句は日本近代の文学概念をはみ出している何かであり、その意味では、俳句にliteratureの要素をもちこんだ正岡子規が、まずまっさきに批判の対象となる。その批判にあたって留意すべきことは、高浜虚子をはじめとする子規以後の大半の俳人は、子規が到達したliteratureの高みを共有していないことだ。その共有を欠いた子規批判はついに子規の核心に届かないし、literatureの外に出ることなどはできようはずがない。
 俳句が〈座〉に息づく表現であることは、これはもうまぎれもない。この句集と同時に海風社から出る評論集『世紀末の地球儀――詩歌のありか』では、鼻つき合わした相互批評の場としてその〈座〉を把握している。〈座〉の原点、つまりことばが生死する現場を、そうした関係に見出したのである。literatureの極限を志向した高柳にしても、その作品がもっとも光芒を放った時期には、そうした場が常にあった。たとえば彼の特色である多行の俳句は、同人誌「群」においてまず試みられたが、野原正作、岡田利作らがその試みをともにしていた(一九四七年)。多行俳句は、高柳の独創というよりも、彼がいた場の創造という方がふさわしい。もちろん、以後の高柳において、その形式はもっとも見事に書き継がれていったのだが。
 右のような俳句の〈座〉は、小説や詩の同人誌などのそれよりも過激である。作品の内部にまで、誰かが入りこんで来ることがしばしばあるのだ。たとえば句会などで、自分の作品が誰かの意見で大きくかわってしまうことがある。そのとき、作者には添削された意識はなく、誰かを介して自分の新たな作品を発見した実感があるばかりだが、ひとつの作品の生成にこんなふうに直接的に他者が介入することは、小説や詩においてはあまりないだろう。『世紀末の地球儀――詩歌のありか』でもふれているが、子規と虚子、河東碧梧桐の関係、また、与謝野鉄幹、晶子、山川登美子の関係などは、相互に介入しあって、俳句や短歌を作り出したのであり、そんなふうに〈座〉は、すぐれた創造力を発揮してきたのである。
 もっとも、その原点としての〈座〉の持続は、ひどくむずかしいことであった。相互批評はたちまちのうちにその相互性を失い、単なる添削になってしまうことが多かったし、また、ひとりよがりに陥り、その場の仲間うちにしか通用しないことばに甘んじるようにもなりがちだった。今日の俳句や短歌の結社のほとんどは、原点である〈座〉を疎外し、添削やひとりよがりをいわば制度化したものではないだろうか。その制度化は、見方をかえて言えば、〈座〉が近代にからめとられてしまったということでもあろう。近代は、すなわちliteratureは、こんなふうに俳句をからめとってしまうから、そのlitera-tureの高みをわがものとしないことには、そこからはみ出すことなどはおぼつかないのだ。
 ともあれ、〈座〉は、俳句形式がその新しいことばを発見するひとつの場にちがいない。
不意に坪内氏の演説がまぎれこんで文脈が乱れたが、演説のあとで彼は、今日二回目の眠りに入った。折からの雷雨を浴びて、家中が響きをたてているが、彼は今、その雷雨のように眠っているとたとえておこうか。
 この集の句は『わが町』(一九八〇年、沖積舎)刊行後に書かれたものであり、「俳句」「俳句とエッセイ」「俳句研究」「早稲田文学」「五柳」「日曜日」などに発表したものがもとになっている。坪内氏にかわって、それらの雑誌の編集者に感謝の気持ちを伝えたい。もちろん、海風社の作井満にも。
(「あとがき」より)

 

 


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