2004年7月、思潮社から刊行された斎藤恵子(1950~)の第1詩集。装画は浅川洋。付録栞は池井昌樹、福間健二。
目次
- 仲間
- 春きゃべつ
- 夕闇が迫ると
- 雨
- 排水管
- カラス
- 熊
- カナリア
- リュック
- 日暮れ
- 海浜にて
- 秋風
- 霜夜
- 仲秋
- 夕凪
- かぼちゃ
- やつで
- 葡萄
- ふゆの野菜
- 烏賊
- レバー
- 蛇と線香
- 佐渡
- 春の夕暮れ
- 十三夜
- 鳥影
- ガステーブル
- 聴くこと
- 向春
- いちじく
- 秘密基地
- 花あそび
- 飛ぶ木
- 樹間
- 洗顔
- 湖水
あとがき
2016年12月、土曜美術出版販売から刊行された龍秀美(1948~)の第3詩集。カバー画はウ・テイエンチャン(呉天章)。
この頃、自分の中で詩が生まれてくる場所について考えることがある。一番深いところの、何に触発されて詩が生まれてくるのか。
以前は「言葉」が導いてくれる道筋に頼っていたが、近年はむしろ「遺伝子」に指し示されているような気がする。生物学的な遺伝子、歴史の遺伝子、地勢や風土の遺伝子。それらは私の意志の及ばないところで、ほのかに明滅している。闇に隠れたかと思うと、不意打ちに現れ、圧倒する。
父が米寿を過ぎたこの頃、不思議なことが多く起こる。母が倒れた五年前まで、ほとんどといっていいほど語らなかった故郷・台湾のことをぼつぼつと語りだしたのだ。アルツハイマーで五分前のことを忘れる状態でいながら、八十年前の記憶が鮮やかに蘇る。それは断片だが、非常に鮮やかで肉感的だ。ピーナッツを食べていると不意に牛の話になる。
「牛を半日追うと落花生が食い放題だった」。油を搾る臼を牽く牛。しかし鮮やかに呼び覚まされるのは牛の姿ではなく落花生を搗く杵の音だ。テレビの中に流れている水が、記憶の鮎を呼び込む。台湾の急流に放流された琵琶湖の鮎。
記憶は遠くなるほど身体に付く。味や匂いや音や手触り。そして恥や怒りや哀しみや欲望の軋みだけが残る。以前は触りたくなかったそれらは、わたし自身の暗い無意識の感情と溶け合い、反発し、よじれあって、ゆっくりと螺旋を描いて昇っていく。
詩集のタイトルとし、また扉書きに記した「父音」という言葉は明治の半ばまであった言語学の概念らしいが、その後子音と統合され、現代では広辞苑の記述でも「ふいん【父音)子音に同じ。」と冷たいほどそっけない。
(「記憶の螺旋――あとがきに代えて」より)
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記憶の螺旋――あとがきに代えて
2018年6月、航思社から刊行された松本圭二の評論集。松本圭二セレクション9。カバー写真は小山泰介。付録栞は山本均と坂口一直。
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第Ⅰ章 詩/文学
第Ⅱ章 詩/映画
第Ⅲ章 映画/フィルム
1995年11月、卯辰山文庫から刊行された和田知子の随筆集。
『藍』は、私の初めての文集である。折々に書いたものを、いつかまとめてみたい、還暦のときに、などと夢みていたが、それもとうに過ぎてしまった。
今年の秋は、亡夫の満十五年忌に当る。何とか無事過ごしえた感謝のしるしにしたい思いもあって、ようやく決心することにした。
いざとなると、恥ずかしさが先立つが、これも句作とは別に、私の歩いてきた道、自分の始末の一つのつもりでもある。
内容も雑多、書いた時期もまちまちなので、一応、四つに分け、各文末に、その年月、掲載誌等を記した。「のびる」は、東京女子大学同期生と、卒業以来四十年間つづけている「のびる会」で、毎年一回出している文集である。
(「あとがき」より)
目次
Ⅰ
Ⅱ
Ⅲ
Ⅳ
あとがき