1955年10月、光線書房から刊行された森菊蔵(1927~1997)の第1詩集。装幀は川崎春彦。
目次
序
荒涼の季節
- 出発
- 白日
- 斷章
- 燃える空間
- 街
- 墓地の人
- 斷崖
- 霧
歪んだ貎の独白
- 暗い季節
- プロローグ
- 詩の序章
- 朝のプラットホーム
- 死に近く
- 生命の饗宴
- 明日について
- 沙漠地帯(一)
- 沙漠地帯(二)
- 墓地
- 回想の季節
- 審判者不在
過ぎゆくものの歌
- 背後
- 晩春
- 暗い谷間の歌
- 灯
- 來歴
- 花の季節
- 地恚の紳
- 初夏の旅
- 東京哀歌
- 訣別
森菊蔵の詩と人間
あとがき
関連リンク
1955年10月、光線書房から刊行された森菊蔵(1927~1997)の第1詩集。装幀は川崎春彦。
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序
荒涼の季節
歪んだ貎の独白
過ぎゆくものの歌
森菊蔵の詩と人間
あとがき
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1969年2月、東京出版センターから刊行された山本政一(1929~1996)の第2詩集。
『動物詩集』をだしてから一年たっった。まだ早いという気もしないでもないが、二冊目をだすことにした。こんどの詩集のほうが、第一詩集というべきで、初期の詩を集めたもので、私が、どうしても、素通りすることのできなかったものばかりである。この詩集をだすにあたっても、菅原克己氏に、いろいろご心配をおかけした。(「あとがき」より)
目次
あとがき
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1966年7月、文化評論出版から刊行された正田篠枝(1910~1965)の遺稿集。編集は正田篠枝遺稿編集委員会(栗原貞子、深川宗俊、浜野千穂子、小久保均、藤井ゆり、大原三八雄、荏原書夫)。
正田さんが亡くなってちょうど一年になる。原爆による被害の後遺症が進んで、もうあと六カ月の生命だと医師から宣告されたのは死の二年ほどまえである。自分はもうどうあがいてもまもなく死ぬのだから、人生へできるだけのお返しをし、見苦しくない用意をしておかねばらならない、というおもいはそれからの正田さんの日々のすべてを生甲斐あるものにしていたにちがいない。「わたしは原爆の生き証人なのだから滅多には死なない。」そういう硬い意志があれだけ生きながらえさせたといえよう。
癌が軀ぜんたいに転移して苦痛がはげしくなってきても、病床に仰むけになったままでカマボコ板にとめた紙片に、忘れてはならぬことどもの数々をいつもかきとめているのであった。よくこそ、死の日まであのように生きていてくれたものだとわたくしたちはおもわずにはいられない。
(「『百日紅』編集のあとに」より
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1947年12月、寺ノ下通信社から限定100部刊行された加賀谷宏の遺稿詩集。画像は1969年2月発行の再版(限定300部)。
四月十三日(日)晴
死期は近づけリと云へ、きようも以前(ママ)として呼吸健穏をつづけり。日夜痰咳の押出しに苦痛せる以外、何らの想念なし、神の啓示もみず、何も考えられないがらんとした真空状態である。希望もなければまして死の恐怖もない。極めて退屈な時間なものである。
果して死の直前とはこんな心境なものであろうか。
(宏)
「詩片」についての感想 森荘巳池
きょうだい三人が詩人だということは、昔から今まで、西洋でも東洋でも、あまり例のないことと思う。この詩集の著者の長兄昌孝(灰人)は自由律の句を作って一家をなし、三弟審三は詩を作って詩社を主宰し、詩片の作者宏は前には句を作っていたが、その死の数十日前から、しきりに詩を書きはじめ、かなりの量の作品を書いた。
それらの詩を見せてもらったのは、長兄からであった。ひとりで作っているよりは誰かに見てもらった方がいいではないかという長兄の気持ちだったらしい。長兄昌孝氏とは、かなり前から私は知り合いで、そんなことから気安く私のところに送ってきたものであろう。その時作者は、遂には起ることが出来ず死の床となったベッドの中にいて、これらの詩を書き続けていたのである。だから私は宏氏内詩を半分は生前に、半分は死後に読んだわけである。
私は、その詩片の1と2とを読んだとき、どうしても一人で見ていることができなくなり、それをKとNとの二人の友人に見せた。二人とも詩人なのだが、ふーんといって共感を示した。われわれは、別に最大級の形容詞を日常の会話に使わなくても、心は通い合うほどの友人である。「うん、いい。なかなかいい」といえば、それでその作品の位置をきめたことになるのである。
明治以後の近代詩は、誰のものを読んでも、たいがいはその派と系譜とをたどることができるし、たいていの詩の表現できる可能の限界は、知りつくされている。その限界を越えることの困難は、すべてのすぐれた詩人が常に感じていることだ。まったく知らない土地に、まったく知られないで育てられた、新しい品種の花などは、およそありえないような形になっている。人は何が出てきでも、もはやおどろかない。あれはあれに似ている。あれはあれの子だとか孫だとか、血統と系譜とは、すぐ示すことができるからである。日本の詩壇は、こんなようすをしているのである。
加賀谷宏氏の作品を見たとき、氏の世界と詩精神と正しく対坐して、ここに全く新しい、かって人目にふれることのなかったものがあらわれたと感じたのである。何しろわずか数十日間の仕事ゆえ量も多くないし、詩形も可憐であり、同郷の先輩宮沢賢治などとは、もちろんその点では同日の談でないことはいえる。けれども、このように澄んでいる目、そして一片の鬼気や匠気をもとどめず、尚そのうえあたたかい感じにあふれた目は、かの大先輩と同じものなのである。この点は特に注憲したいものである。すきとおって清らかに純粋なものが、恐らく読む人の心をうち、涙をさそうであろう。これは、ほんものなのである。
こら作品俳は、じじつ生命を一刻一刻けずらなければ、作りえなかったものであろう。けれどもそういう苦しさのあとが、作品の上では、きれいにあらいおとされている。あっぱれなことである。
餅
七輪の
金あみの うへで
餅が つぎつぎ ふくれる
さかんな
葬列を みてゐるやうだ
卵
皿のうへに
卵が 一箇 おかれてある
――喪のやうなしづけさ
へんじ
ひろい
原っぱに 立って
大きな声で 呼んでみろ
かぜに むかって
空に むかって
へんじがないのに決っている
このような加賀谷氏の詩は、日本の短詩型文学では、あとはのぼるところがない場所に位置するのではなかろうか。数十日のうちに、このような作品の多くを書きとめて、消えるように死んでいった加賀谷氏のことを考えると、どうも不思議でならない。前には詩を深く勉強したわけでもなく、一所けんめい作ったわけでもなく、死ぬことが解ってから何か書かなければならない感情から、病床で書き出し、それがそのまま、もっともなよい作品になっている。作品のどこをさがしても、幾らかはさびしいが、あせったりあわてたりしたかげなどは、ちりの毛ほどもない。加賀谷氏の才質や情熱、年令や環境やいろいろの囚子が一たばになって出てきたもので、これは稀有に属する現象であろう。
詩片の諸作を読み、作者が病気で寝ていることをきいたので、これはぜひ会わなければならぬと思い、花巻にいった。思いたってすぐ実行しておかないと、こういう人間かんけいは、あとでへそをかんでも追いつかないことになる。詩集黄海村の著者鈴木伸治の場合がそうであった。彼は東京で生活にうちたおされ、長く病んでいた。上京のついでに、ぜひ会おうと思い、出かけたが、途中九段の靖国神社のおまつりが、電車の窓から見え、それを見るために私は電車を降りた。田舎者のばからしさである。そしてとうとう鈴木君の入院している病院に行かないでしまった。また出直そうと思ったのだ。ところが、その夜中に鈴木君は死んだことを、あとできかされた。そういえば、加賀谷氏の死ぬことを予期し予想していたのかときかれ、私はひどく客観的な冷淡な運命や生命の傍観者のようにきこえるかも知れないが、私はそのような人間かんけいを、何べんも体験している。そして人の命は、電光や白露に似ていると昔の人のいったことに、賛意を表しているものである。
花巻の加賀谷氏の家をさがしあてだとき、私は、はじめて会う人に、彼の作品に対して考えていることをベッドのわきで説いた。この一ぺんの訪問に、ほんとうにあとさきなしの会話があった。それから雪が消えはじめる速度といっしょに、加賀谷氏は死んでいった。人問の生命は、ある場合は何ものよりも強くたくましく、どうしても死なないものであるが、またある場合は、はかなく花の散るように、影のうつるように絶えてしまうものである。
やわらかい美しい目なざしと、邪気をとどめぬ横顔を持ち、おおむいているが、ときどき私の目を見てうなずく彼の顔が、はっきり今でも思い浮べられる。私は加賀谷氏の作品について、いけない点、よい点を、遠慮なくいった。私のいうことが、すーすーと、あますところなく吸いとられていくようすが、まるで即物的に目に見えるようで、私はきてよかったなと思った。朝から話して昼御飯をごちそうになるほどの時間の会話は、彼をつかれさせたにちがいなかった。
「神の啓示もなく、死の絶望もなく、ただがらんとした、たいくつな時間があるだけだ」と、死に直面した気持ちを、彼はこう日記に書いている。それが最後の頁になっており、臨終の何日か前なのである。字体がややくずれているのか見ると、まったく体力がつきてしまったもののようである。それがありありと解る。この日記帳には、加賀谷氏の一人の恋人のこと、愛の生い育ちゆくみちすじや、恋の在り方が、つぎつぎと日を追って書かれてある。私はそれを読んだ。りっぱな作品から受ける感じと同じだった。
この愛が、彼の作品におよぼしている影響は、ずいぶん大きいものである。この人に対する愛がなく、万物に対する愛がひき出されなかったら、彼の作品は生れてこなかったかも知れないし、または生れてきても、つまらないものだったであろう。
愛というもののあらわす奇蹟について、私は目をつむって祈る気持ちである。(昭和二二・一〇)
加賀谷宏著「詩片」再刊について
この詩集が、はじめ限定百部発行されたことは百二十四頁の奥付に記載してある。原著は、赤羽王郎氏苦心のトウシヤ版刷りである。赤羽氏の装幀・扉とも原著に忠実に復原した。目次をつけなかったのもそのためである。日記の「絶筆」は巻頭の扉の裏に印刷した。
「手紙に代へて」は、この本に組み込んであったものではなく、トウシヤ印刷で、本にはさんであったもの。私の感想で、『一片の「鬼気」や「醜気」を』「匠記」と改めた。この再刊本が「母型」になって、次の刊行の時には、いろいろ加えられて、どっしりしたものになろう。
(昭和四四・一・二〇)
関連リンク
知られざる詩人、加賀谷宏、その1(城戸朱理)
知られざる詩人、加賀谷宏、その2(城戸朱理)
知られざる詩人、加賀谷宏、その3(城戸朱理)
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1998年4月、邑書林から刊行された入沢康夫(1931~)作品の解説書。装幀は島田牙城。編集は『入沢康夫の詩の世界』刊行委員会。編者代表は野村喜和夫と城戸朱理。
ここにようやく、『入沢康夫の詩の世界』を公刊する運びとなりました。といいますのも、当初は入沢康夫氏の新詩集『漂ふ舟』とリンクするかたちで、一九九五年春の刊行をめざしていたのですが(本書に収録の諸論考中、陰に陽に『漂ふ舟』への言及が多いのはそのためです)、諸般の事情からそれが大幅に遅れてしまったのです。執筆者をはじめ多くの方にご迷惑をおかけしてしまいました。とりわけ、刊行を楽しみにされていた入沢氏ご自身にはどれほどの落胆を与えたことでしょう。もともと本書は、氏を敬愛して集まってきた若手の詩人たち数名によって発案されたものだったのですから。
しかし、それでもこの遅延はまったくのマイナスともいえません。昨年(一九九六年)末に、『入澤康夫〈詩〉集成』上下二巻が青土社より同時刊行され、つまり今度はそれとリンクするかたちでの本書のありかたが可能となったように思えるからです。『漂ふ舟』一巻よりは全詩集にリンクできる方が幸運であり豊かであるに決まっています。読者はどうか、『入澤康夫〈詩〉集成』とこの『入沢康夫の詩の世界』とを併せ読まれますように。
否、現代詩の最奥部といってよい入沢ワールドに踏み入るのに、早いも遅いもなく、リンクだの幸運だのといった余裕もないとしたものでしょう。今日、詩はかつてないほどの危機にさらされています。大衆社会、情報化社会の進行するにつれて、詩はすっかり退化かローカル化し平準化してしまいました。いまや、あってないような漠然としたフォーマットにそって誰でも詩を書くことができ、それをパーソナルな場で通信し合うことができますが、それだけのことです。他の誰も見向いてはくれません。そうしたなかで入沢作品を読むことの意義は、きわめて単純に、こんなわけのわからない凄い詩を書いた、そして書きつつある詩人がいるのだという驚きの念にあらためて打たれることでしょう。詩とは何かという問いが、果敢に、それこそ詩の存立基盤が危うくなるぎりぎりのところで追い求められていることに、われわれは素直に驚かなければならないのです。入沢康夫と詩的表象の地平。同時にしかし、そうした追求を通じてたえず響いてくる〈うた〉、詩についてのあらゆる問いやあらゆるもっともらしい答え(事実、それらに惹かれて入沢作品を知へと回収する動きが跡を絶ちません)のあとに露頭するある根源的な〈うた〉のようなものに、さらに深く打たれなければならないのです。
(「あとがき」より)
目次
I 詩――入沢康夫氏の方へ
Ⅱ オマージュ
Ⅲ 対話
Ⅳ 論考
i〈詩〉の生成
ii〈舟〉のゆくえ
iii架空のオペラ
Ⅴ 年譜・書誌
あとがき 野村喜和夫