1984年10月、思潮社から刊行された渋沢孝輔(1930~1998)の評論集。
「現代詩というものもずいぶん遠くまで来てしまったものだ」、と私は本文のなかの一頁に書いたけれども、これらの文章をまとめてみた今も、それは変らぬ実感である。遠くまで来て、さらにどこへか行こうとしている、また行かねばならぬわれわれの詩。本書に収めた文章では、たまたまそのわれわれの詩の遥かな過去から現代にいたる道程を飛々ながら展望し、浮び上ってきた特徴と問題点について考えてみる結果になっているように思う。もとより、管見のさらに管見程度のものである。『詩のヴィジョン』(詩についてのヴィジョンであるとともに、詩が持つ世界についてのヴィジョンの意でもある)などという題を掲げたのは、私の目下の関心がそこにあるということのほかに、ささやかな管見によってさえいまさらのように気付かされた事柄のひとつが、詩の歴史もまた世界のヴィジョンの絶えざる探索の歴史にほかならなかったということと、現在におけるその破局的喪失または混乱という事態だったからである。
現代詩がいやおうなくこれほど遠くまで来てしまい、さらに遠い道程を歩かざるを得ないと感じられるのもそのせいに違いないが、浮遊、彷徨、あるいはよく言って逍遥の現状は、むろん私自身のものでもある。ただ、先人たちの思考の跡、本書の場合で言えばとりわけ吉田一穂のそれが、私には大きな指針となったことも事実であり、そこになにほどか、読者にとっても参考になるものがもしあるならば幸いである。
(「あとがき」より)
目次
Ⅰ 詩のうち・そと
- 吉田一穂の日本語論1
- 吉田一種の日本語論2
- 吉田一穂の日本語論3
- 吉田一穂の日本語論4
- 吉田一穂の日本語論5
- 吉田一穂の日本語論6
- 『地獄の一季節』をめぐって1
- 『地球の一季節』をめぐって2
- 『地獄の一季節』をめぐって3
- 『地獄の一季節』をめぐって4
Ⅱ 螺旋的道程
- 詩的想像力の現在――オクタビオ・パスの場合
- 「ガランドウ」からの手紙
- 〈あとがき〉でなく
- 詩と散文なのかどうか
- 明治期「新体の詩」への道
- 1日本ノ詩、日本ノ詩ナルベシ
- 2伝統詩のなかの先例と鴎外、有明
- 3北村透谷と『マンフレッド』
- 4島崎藤村の詩業の意味
- 恐怖症からの発語
Ⅲ 詩書遺選
- 寺田逸『ランボー着色版画集私解』について
- 『楠田一郎詩集』
- 詩の発見
- 「歴史」と風景の発見――飯島耕一『上野をさまよって奥羽を選視する』
- 二様の書き方――谷川俊太郎『コカコーラ・レッスン』他
- 嵯峨信之の詩――『開かれる日、閉ざされる日』
- ZENPOEMS――高橋新吉『空洞』
- 本源的読み直し――高良留美子『しらかしの森』
- 玄玄天。玄玄大地。――草野心平『玄玄』
- 正統ということ――鷲巣繁男『行為の歌』
- 風俗の詩――『ラブホテルの大家族』
- 向うから来るもの――大岡信『水府』
- 葬送の詩――吉田文憲『花輪線へ』
- 〈異域〉の消息――粒来哲蔵『うずくまる陰影のための習作』
- 悪の花――北村太郎『悪の花』
- 恋と旅のし人――諏訪優論
- 言語は欲望の環を――松本邦吉『市街戦もしくはオルフェウスの流儀』
- 悪夢の腑分の詩――阿部岩夫『月の山』
- 詩人の誕生――飯田善国『見知らぬ町で』
- 伝説的地平――山本太郎詩、渡辺恂三画『スサノヲ』
- 陽気な世紀末――田村隆一『陽気な世紀末』