1979年10月、紫陽社から刊行された犬塚堯(1924~1999)の第2詩集。装幀は谷川晃一。
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Ⅰ
- ままにならない三軒の家
- 一匹の虫
- 二コライの出入口
- 戦争に行く前に河に出かけた
- 不意に向きを変えるのは
Ⅱ
- 伊万里湾
- VANが話すには
- 下手人
- 「聖者」が町にやってくる
- 折り折りの魔
- 熊の檻
- 福島君の火葬
- 涯しない共存
Ⅲ
- 鼬が来た夜
- 深夜の壁
- 庭園
- 目の前に犬がいる
- 麺皰
- 明げ暮れのオーリャ
- 再び海へ
1979年12月、紫陽社から刊行された三橋聡(?~2003)の第2詩集。装画は野口晴美。
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1981年6月、詩学社から刊行された島田千鶴(?~2017)の第1詩集。解説は笹原常与。第19回群馬県文学賞受賞作品。
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『水のない川』書付け 笹原常与
あとがき
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1979年11月、みちのく印刷から刊行された山佐木進(1943~)の第1詩集。
つんのめるように生きていた青春の時からいつか詩集を出さなければと思っていた。
だがいざ実際に詩集を編む段になると、なんとなく気恥しい気がしてならない。
詩集を出すことによって一つの区切りをつけ、新たなものの中へ歩みだせるからと自分に納得させてはみたが、やはり詩集を出すことに赤面をおぼえずにはいられない。
自分にとって、古いとか新しいとか現在の詩の傾向とか、そういったものはいつも問題ではなかった。それよりも、自分の言葉が夢見がちであるかどうか、夢見がちにさせてくれるかどうか、それだけがいつも気になっていた。私は不器用だから、どんなふうにして他者と交わっていけばいいのかわからない。
”愛し方がわからなくて、うれいがちだった少年を思い出す”と以前書いたことがあった。今に至るもそれは変わっていない。
自分の生か他者の生を活かす。そのようであったら素晴しいと思う。詩を書く自分の行為も、そうした深みから出てくることを願わずにはいられない。(「あとがき」より)
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あとがき
1971年9月、昭森社から刊行された上村弘子(1932~)の第1詩集。著者自装。
庭の数本のざくろが、芽吹き、花を咲かせ、実を結び、四季の扉を開閉する。私は、窓辺のざくろと語り、慰められ、あるいは、仲違いをしながら、三年の歳月をひとりの部屋で暮してきた。柔らかい風や、冷たい風が、季節と関係なく訪れ、そして通り過ぎていく。私はそれを、ひとりの女の生きてきた足跡として、詩わずにはいられなかった。
出来あがった作品は、尊敬する村野四郎先生にみて頂きたくて、先生が選をしておられる婦人雑誌に送り続けた。
昭和四十二年から、他の雑誌の選者に変わられたのを併せて四年間、毎月欠かさず投稿した。一か月に二篇としても、百篇近くになる。推い原稿用紙を想像して、申し訳なく思う日もあった。
詩のむつかしさが解り始めたころ、「村野四郎全詩集」が発刊された。私は、まず友人から借り、長い時間をかけてノートに写した。書き写し、読み返すうちに、村野先生の詩の深さが解ってきて、自分の詩に対する思い違いに戦慄を覚えた。村野先生の詩には、なに気ない言葉のなかに、脳髄までも感動させられるものがある。今ではこの詩集が、私の一番身近な愛蔵書となっている。
師と仰ぐ村野先生に、序文を頂くことができて、この上もない光栄である。厚くお礼を申しあげます。
詩集「ざくろ」は、貧しい作品の集りではあるが、一篇一篇、私の分身のような愛着を感じる。私に、詩集発刊の勇気を与えてくださった、諸先輩、友人たちにも、心からお礼を申しあげたい。(「あとがき」より)
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序 村野四郎
あとがき
1981年11月、詩学社から刊行されたよしだひろこの第2詩集。著者自装。扉絵は豊田一男。
街を歩いていると、永遠に止った刻のなかにいるような奇妙な錯覚をおこすことがある。いつかしら私はその刻のなかに、自分の原素をばらばらに忘れてきてしまったのかもしれない。ときどき遠くから私か呼んでいるような気がする。やはり私は、空を見ているのであろうか。(「あとがき」より)
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跛 君の左側に 会田綱雄
あとがき