1960年6月、有信堂から刊行された佐藤春夫(1892~1964)の詩文集。装幀は高田博厚。
目次
・けいもう詩話
・ざつさん詩集
- 慶祝歌
- 御成婚奉祝歌
- 竹苑春風曲併序
- 皇孫御降誕の佳き日に
- 福澤先生を仰ぐ
- 少年の秋
- おとたちばな
- 陽春曲山村夜祭
- 口ずさみ
- 望鄕新春曲
- 小鳥の歌へる
- 歸去來歌
- 四月五月は
- 徐福の船
- 銀座街頭口吟
- たばこ工場
- 海濱殘雪曲
2019年6月、国文社から刊行された網谷厚子(1954~)の評論集。カバー装画は高田有大。著者は富山県中新川郡生まれ。
「日本語」で詩を書くとはどういうことなのか。「日本語」の特質を存分に発揮した〈洗練〉された表現はできないか。第一詩集を出してから、四十年以上も、私は追究し続けている。「日本語」が纏っている美しい〈佇まい〉、他の言語の翻訳では伝わらないであろう、独特な言い回し。古典文学を専門とする私は、「日本語」が、古代から連綿と現代に至るまで受け継いでいる〈味わい〉を、自分が書いている「詩」で生かせないかと格闘している。
「短歌」「俳句」の短詩型文学で築き上げ、磨き上げられてきた〈表現〉。言葉が躍動し、あるいは突然の〈間〉による沈黙。翻弄され、誑かされ、時に泣かされる。文学は、何百年、千年以上もの時を超えて、私たちのもとにダイレクトに届けられる。これは、世界でも稀有の、日本文学の〈奇跡〉である。
めまぐるしく科学・技術は進歩し、強固なAIと無防備な人間との、終わりのない〈戦い〉が、ボードゲーム以外でも現実世界ではすでに始まっている。そんな時代だからこそ、〈やわやわ〉と、深く長い時間を遡り、さらに未来へと歩を進めていく、健気な試みが必要ではないだろうか。じっくりと取り組むことでしか、見えない〈真実〉がある
平成二〇年から一一年間沖縄に住んでいた。その土地に住まなければ、見えないもの、気づかないことが、なんと多いことか。沖縄への旅は終わる。
しかし、「日本語」による〈表現〉の旅は、まだ始まったばかりかもしれない。私の命の火が消えるその日まで、しぶとく取り組んでいけたらと思う。
(「あとがき」より)
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あとがき
2014年10月、東京こけし友の会から刊行された「こけし手帖」の総目録。
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