こころの匂い 寺久保友哉

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 1977年8月、文藝春秋から刊行された寺久保友哉(1937~1999)の短編小説集。装幀は山田礼二。著者は東京生まれ、刊行時の職業は精神科医師。「棄小舟」は第75回、「陽ざかりの道」は第76回、「こころの匂い」は第77回芥川賞候補作品。北海道大学医学部在学中より渡辺淳一、高橋揆一郎らの同人誌『くりま』に小説を発表してきた。

 

 「いずれその時がきたら書こう」とおもい、書かずにきてしまった事柄が、数多くある。今になって、それは後悔と同じ意味しかなっていないことに、気がつく。「いずれ」などという時は、この人生にはあり得ないらしいのだ。
 正常と呼ばれている世界にこそ、描くべき小説の世界がある、と信じていた時期があった。精神科医になるまで、私を取りまく人間が、少なくとる表面は、正常人と呼ばれていたせいかもしれない。精神科医になってからは、一日のうちで、接する人の殆どが、異常人と呼ばれる患者だった。それらの人々が、正常と呼ばれる人々をみる私の眼を、変えていった。それらの人々が、正常と呼ばれる人人よりも、正常な部分をより多く持ち合わせていることが稀とはいえなかった。
 正常であるべきとの部分が、異常になっているのか。異常と呼ばれながらも、どの部分がまだ正常なのか。正常と呼ばれながらも、どの部分に異常をきたしているのか……。それは、数字の比率の大小で割りきる訳にはいかないように、おもえた。人間のこころは、果しなく広いからである。
 こころに病を持つ人々に触れて、生活するうちに、いつのまにか、私は、人間そのものを、これまでとは異った見方で、みるようになったらしい。医学の世界においては、異常か、正常かの明確な診断がくだされなくてはならない。治療をなすうえに、必要なことだからである。しかし、人間が生きていこうとするとき、医学的な診断名は、治療とはまったく別な働きをする。
 私は、人間をもっと広い視点から捉えてみたかった。異常と呼ばれる世界にも、私の描くべき小説の世界があるようにおもえた。
 「いずれその時がくるのを」待たずに、私はこの三作を書いた。筆のつたなさは、おおうべくもない。また、この作品をとおし、私の未熟さをさらすことになった。しかし、書きたくて書いたのだから、後悔はすまいとおもう。
 創作にあたって、登場人物に、つとめて綽名をつかうことにした。カルメンさん、マドモアゼル・ノン、ドン・カミロの修ちゃんなどがそれである。実名が、登場人物の名前と偶然重なり合い、個人的な興味を抱かれて、迷惑のかかる誰かが生まれることを、懼れたからだ。また、その興味で、これらの作品が読まれてしまうことは、私の本意ではなかったからだ。
 この作品を読みおえたあと、読者に、人間をみる眼を変えてるらえるだろうか。それは不遜なことかめしれない。しかし、私には、今、ことばでいいあらわせない緊張がある。
(「あとがき」より)

 

 


目次

  • こころの匂い
  • 棄小舟
  • 陽ざかりの道

あとがき


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