1992年10月、あざみ書房から刊行された松井久子の詩集。
一年ほど前に、「海に降る雨」というタイトルの写真展を見た。増見芳隆という写真家が写したアイルランドの写真展である。人物、風景、動物がたおやかに美しく表現されていて久しぶりに感動した。写真の内容もさることながら、タイトルの「海に降る雨」というのも気に入った。海に雨が降れば、海の表面近くでは淡水と海水が激しく混じり合うだろう。やがて、淡水は海水になるのだろうが東の間そこでは、私たちの目には映らぬぶつかり合いが起こるはずだ。
最近「汽水」という言葉を知った。淡水と海水の交わるところ、つまり川と海との交差点に漂う不思議な水のことである。そこでは海の魚と川の魚が共存するとい異様な光景が見られるという。
汽水域では浸透圧変化が激しくて、これに耐えられるものしか生きていけないという。気温の変化、湿度の変化、気圧の変化に体が過敏に反応し、じんましんの出てしまう私は、もし魚に生まれ変わっても汽水域では生きていけないだろう。
淡水でもない、海水でもない水の存在。その目には見えぬ不思議さに私はひかれる。虚と実の世界も、はっきりと分かれているとは限らず、汽水域に似た部分があるだろう。作品を読んだ人にこれはフィクションか、ノンフィクションかと聞かれるのは辛いことだ。一言でどちらとも言い切れない時がある。そこには境目というものがない。
ひとつの作品が生まれるとき、いつも、目には見えないが不思議な水が流れる気配を感じるのだ。
(「あとがき」より)
目次
- あやとりをする男
- ふとんの位置
- 私の海
- 地下鉄の座席
- 乗換え駅
- 伝言板の駅
- 遊戲
- 食事の風景
- ささやかな夢
- ある日言われたこと
- 雨が止むまで
- 犬地図
- 春雷
- スナック
- 残暑見舞い
- 川のある風景
- 川に住むもの
- あやとりをする男
- 鳥と水門
- 線香畑
- 打ち掛け
- 深夜のかけら
- 気難しきもの
- 回転ドア
- 約束
- 葉について
- 寂しいコンパス
あとがき