1950年11月、博光堂から刊行された八並誠一の第1詩集。装幀は阿部金剛。跋は石上玄一郎。
もう十數年も前だが私たち文學に志すもの數名相より「大鴉」なる貧弱な同人雜誌にそこばくの作品をものして、青年らしい勝手な氣焔をあげてゐたことがあった。八並誠一も私もともにその雜誌の同人だった。私はろくに作品も書かずに、他人の作品ばかり、あげつらってみたが、當時の八並は同人中の急先鋒で次々と好短篇を發表し、友人間の注目を惹いてゐた。
なかでも亡父の追憶に取材した「北緯」といふ作品は哀威の胸に迫るしみじみとしたもので、アラさがしこそすれ、あまりほめるなどといふ事のない我々の仲間を思はず嘆賞させた。私は彼がこの調子で進んだならフィリップに血縁する優れた短篇作家になるだらうと、ひそかに期待してゐたのであつたが、どういふものかそれ以來、彼はかうした傾向作品を二度と書かなかった。
彼はあれで相當なはにかみやだから、自分の裸に氣がつくとあわてゝ、不似合な衣裳を身に着けてしまふのだ。その後、氣の利いたエッセイや、稻垣足穗めいた玩具箱のやうな作品を「文學草紙」やその他の同人雜誌に書いてゐたが、それは何か自分の器用さを恃んで安全な藝當をやつてゐるといふ感じだった。
そのうちに彼は詩を書き出した。いったい彼は散文家といふよりも詩人である。エッセイもメルヘンじみた短篇もあとになって見ると、彼の詩人的素質から來たところのもので、強いて散文の形をとったため、その詩精神が充分に發揮されない憾があった。 齡不惑にいたって、漸く彼は自分を發見したかのやうである、自分はやはり詩人なのだ――と。
彼は抒情家でもあるが、彼の本來の面目はその獨自なエスプリにある。そしてそれはさうした感覺に於て貧しい日本の文人達の間では他にあまり比類を見ないところのものである。この「午前午后」はエスプリといぶのは必ずしも佛蘭西人の合言葉ではない事を充分に教えてくれると思ふ。
ともあれ、中學時代からの友であり、また多少血のつながりもある彼の業蹟が今、この處女詩集「午前午后」となって生誕するのを見るのは嬉しい。これによって、未だ彼を知らずにある同じ世界の人々との間に機縁が結ばれ、それがまた彼の詩精神を昂揚させるよすがとなるであらうことは友人としての私の切なる願ひである。
(「跋/石上玄一郎」より)
目次
教師の謳歌
虹と雨
教室
黒板
讀方
夏日
校庭
彼奴
風景
夜の座
アモツク
午前午后
うすら日
手袋
彼の聖橋
耳
青い花
嘘
二顆
誤解
ただひとりの人
媚藥
魔女
夜の眼
童女の唇
師匠
秋の東京
鯨
詩稿
スヰツチヨ
思慕