1978年5月、角川書店から刊行された立原正秋の第1詩集。装幀は栃折久美子。装画は堀文子。
詩集をたしませんか、と角川書店の小畑祐三郎くんから話があつたのは、昭和五十年の暮だつた。その日彼は別の用件で鎌倉を訪ねてきて、帰りぎはにさら言つたのであつた。小説のなかに詩をはさんだことがなんどかあり、小畑くんはそれを抜きだしてあり、他に未発表の詩があるでせう、と言ふのであつた。
未発表の詩はあつた。心は動いたが、一冊の詩集となると、なんとなく恥づかしく、考へておきませう、と答へておいた。
そしてあくる年は「藝術新潮」に〈日本の庭〉の連載の仕事で追はれ、詩集のことはすつかり忘れてゐた。さうしたら暮に小畑くんから、そろそろ決断しませんか、と言つてきた。では整理をしてみませう、と答へておいたが、やはりなんとなくためらひがあつた。「藝術新潮」の仕事は一年間で終つてみたが、あくる五十二年からは「日本経済新聞」の連載小説の仕事があり、舞台が奈良だつたので、奈良をしばしば訪ねてるるうちに、何篇かの詩もうまれた。詩集をだしてみようか、と心がきまつたのはこのとしの五月だつた。しかし他の仕事があり、旧稿を整理する時間がとれなかつた。
だいたいがつくらうと思つてつくつた詩は数篇しかない。即興的に書きつけておいた詩が殆どで、十一月にはひつてから整理にかかつたとき、とてもこれは詩になつてゐないな、と判断した十数篇は、小畑くんには見せずに捨てた。
ここに収録したなかにも、小説の作中にはさんだので捨てたいのが数篇あつたが、小畑くんは、その必要はない、と言つて収めてしまつた。
かうして二十代のはじめから五十代のはじめにかけての三十年間の詩をあつめ、一冊の詩集を刊行することになつたが、なんとも心もとない。詩になつてゐない、と言はれたら、詩人ではないから大目にみてください、と答へるしかない。なんとか詩になつてゐる、と言はれたら、礎としか思へない。
いつたん活字になつた作品は後で手をいれないことにしてあるので、詩もそのれいにならつた。書いたときの感情をそのまま残しておきたいからである。
〈わが水〉〈午後〉は「小説新潮」の求めに応じて、また〈春のことぶれ〉は「毎日グラフ」の求めに応じて書いた。その他は小説のなかにはさんだもの、同人誌の「犀」「青銅時代」に発表したもの、それから未発表のものである。
詩は殆ど歴史仮名でよんであるのでこの一巻はすべてそれに統一した。なほ〈能樂堂〉は西ドイツのハンブルグ大学のベンル教授が翻訳し「ナハリヒテン」(NACHRICHTEN)といふ雑誌に発表された。ベンル教授が、ハンブルグ大学に留学してある倉石ふさ子さんを通じて〈能樂堂〉を翻訳して発表する許可をあたへてほしい、と伝へてきたのは昭和五十年のはじめだつた。ともに未知の人だつたが、そのとき倉石さんは帰国しており、ベンル教授は〈能樂堂〉を収めてある深夜叢書社刊の私の初期作品集を持つてゐると話してくれた。それから倉石さんは帰国するたびに訳の進行状況を伝へてくれたが、完成したのは昭和五十二年の夏の終りださうであつた。私はドイツ語はわからないが、鏤骨の訳だらうと思ふ。
三十年を振りかへつてみると、そのときどきの光と風が交錯してゐる。装幀は栃折久美子さんにおねがひした。堀文子さんから本文中に適切な絵を添へて戴けたのも有難かつた。すべて小畑くんの案で、数年間にわたる彼の友情と労を多として、ここに一小説家の未熟な詩集の跋をのこす次第である。
(「跋尾」より)
目次
・能樂堂
- 言祝ぎの日
- 花によせる十四行詩
- さびしき生涯
- 聖灰水曜日
- 能樂堂
- 冬日狂乱
・閃光
- わが友
- みまかりし友よ
- 五月は典雅な
- 閃光
- 光と風と雲
- ローム層
・畫の月
- 畫の月
- 千年
- 救世観音
- 心のかなしき
- 伎藝天
- 陽はさんさんと
・山河
- 山河
- むかしの道
- 午後
- いづれのとしやらむ
- わが水
- かなしき人に
- うたびとに
・旅人
- 散り残りの
- 風
- 風の裂け目に
- 旅人
- 春のことぶれ
跋尾