1958年2月、コスモス社から刊行された山田今次(1912~1998)の詩集。装幀は高橋綿吉。
山田今次とは、かけちがって、まだ一度もあったことがないが、私たちは、もうずいぶん古い知り合いである。いや、そのつもりでいる。私は山田今次の名昭和二十二年、新日本文学会第二回創作コンクールの詩の部で、一位に入選した「あめ」という彼の詩によってはじめて知った。職場の詩というものがようやく問題になりかけていたが、まだ大部分の詩が自然発生的な素朴リアリズムの域を脱しないところに、これはと目を見はらせる方法を示して、それによって職場の詩の未来に一つの明るい希望をもたせた詩人が他ならぬこの山田今次であった。由来私は、この詩人の作品に注目してきた。親和感は日とともに深まり、むろん私自身そこから多くの栄養分を吸収するとともに、外部に出て、詩の話などするときは、いつも具体例として、彼の作品を引用するのがならわしになった。私の話や著述を介してだけでも、「あめ」をはじめ「のみ」「貨車」などという彼の詩を知っている人は、関西の労働者の中にはたくさんいるはずである。いま、私は彼のこれらの詩を紹介したときの労働者諸君の反応をはっきりと思いだすことができる。
山田今次の詩について特筆すべきことは、そのオリジナルな聴覚的想像力だろう。彼の駆使するオノマトペ(擬音語)は力強く、且つ新鮮である。耳からくるものを一応も二応も警戒してかかる私のようなものでも、この詩人の詩を読むと音楽性によってこそ詩の革命は可能だと思いたくなるほどである。私には彼の持っている語調、語感がとても気持がいいのだ。これを直ちに、詩のリズムとよぶことには問題はあるだろうが、それが私に快適なのは、おそらくこの語調、語感が生れるみなもと、あるいはそれを支えているものが、私のもっているものと同じ性質のものであるか、同じ性質のものたらんとする私の欲求と一致しているからだろう。そのことに私は何よりも大きな親愛さと誇りを感じる。
山田今次の詩集は、私にとって、このような意味を持つ本であるが、より以上にうれしいことは、山田の詩をもっとたくさんたくさん読みたいと私にうったえた人たちに、出ましたよ、詩集が、と吉報をもたらせることだ。
(「跋」より)
目次
・行く手
- トレーラー(1955)
- 夜(1956)
- 貨車(1952)
- こおろぎ(1955)
- 貨車 (1)(1957)
- 貨車 (2)(1957)
- あめ(1947)
- はと(1952)
- すずめ(1956)
- 舞台(1957)
- ねむり(1948)
- ばんちゃ(1949)
- ゆきやま(1948)
- 話(1948)
- ひとつひとつ(1946)
- 少女(1)(1955)
- 少女(2)(1955)
- 少女(3)(1955)
- むすめ(1)(1953)
- むすめ(2)(1953)
- こや(1947)
- のみ(1947)
- くつした(1947)
- ほし(1950)
・やけあと
- 日記―やけあと(1947)
- おめでとう(1953)
- 啄木(1950)
- 愛によせて(1961)
- 祝福(1955)
- 汗(6141)
- あの坂を(1948)
- 京浜労働者の歌(1949)
・文句を吐けば煙の如く
- 機関車(1949)
- 荷役(1936)
- 雨(1940)
- 樹木(1939)
- 骨(1938)
- 血(1938)
- 無言(1937)
- 夢(1940)
- 大根(1938)
- 獣皮(1940)
- ^雲(1940)
- 港(1935)
- 老いたる感慨(1935)
- 埃だらけの青年(1936)
- 文句吐煙の如ㄑ(1936)
跋 小野十三郎
あとがき