1977年6月、短歌新聞社から刊行された玉城徹の評論集。
昭和期、ことに戦後に活動した歌人たちについての論を中心に一冊を編んだ。ただし第二部は 現代短歌についての時評風の文章を集めたものである。作家論の中、「新風十人およびその時代」はもとより戦争直前の一時期の歌人たちを論じたものではあるが、これとても戦後短歌との関係を考えることが目的である。他の歌人論においても、戦前、戦中の時代がそれらの作家に対して持つ意味にいくらかは触れているが、これは当然であった。
ここに集めた文章は、すべて一九六〇年代から七〇年代にかけて書かれたものである。すなわち六〇年安保闘争の後、七〇年の学園紛争の時期を経て昨年あたりまでの評論である。そこで、これらの文章にはこの時期に歌人として生きていこうとしたわたしの主体が強く反映されている。第五部において、そうしたわたしの主観的見解が直接に露出していることは言うまでもないが、第一部の作家論とて、わたしの主観によって彩れていることは否定できない。つまり研究者が冷静に客観的に資料を検討しておこなった仕事とは、おのずから類を異にするものである。もちろん、このことは、わたしが自分の立場から勝手に現実を曲解したなどという意味ではない。 わたしはわたしなりに現実を正しく把握して、そこから自分の進路を摸索しようとしたつもりである。しかし、わたしはここでは行動者であり、論を書くこと自体一つの行動だったから、その 行動が理解の上に影響することは避け得なかった。
これらの文章はすべて機会があって書いたもの、いわばゲレーゲンハイッシュライベン(機会述)である。書く機会を得ないでしまった歌人も多いことは、わたしにとって心残りである。それにしても、つくづくと思うことは、わたしのようなものでも曲りなりに歌人の一人としてやってこられたのは、すぐれた先人たちのたゆみない営みがあったからだということである。そこからどれほど恩恵を蒙っているかを思わずにはいられない。それから同世代の人たちの探究と活動も非常な支えであった。たとえば、根本的に立場の違う前衛派の刺激は、わたしには大そう薬になった。あらためてふり返ってみる時、心から感謝を述べたい気持ちになる。いかに古典や伝統のみちびきがあっても、こうした現実の環境がなければ、作者にとっての生きた力とはなり得ないもののようである。
作家論などというものは、論じられた作者自身にとっては迷惑千万なものであろう。それを思うと、あらためて作歌論をまとめて出版するなぞは心ないわざだと、冷汗がにじむのを禁じえない。
(「序」より)
目次
自序
I 同時代の歌人たち
- 新風十人およびその時代
- 小関茂素描――昭和の一歌人
- 加藤克巳―永遠の出発者
- 佐藤佐太郎――事物の厚み
- 香川進――表現への信頼
- 初井しづ枝――拒否の持続(1・2)
- 宮柊二――生の営為
- 山崎方代――流竄の悲しみ
- 現代歌人寸描
- 土屋文明
- 松村英一
- 木俣修
- 前川佐美雄
- 筏井嘉一
- 渡辺順三
- 北見志保子
- 五島美代子
- 佐藤佐太郎
- 宮柊二
- 近藤芳美
- 田谷鋭――個性と伝承(講演)
Ⅱ現代短歌の位相――608年代から70年代へ
- 戦後短歌の方法論
- 悪魔の不参加――「現代短歌的」管見
- 現代短歌技法の批判的考察
- 鑑識について
- 偏見的歌壇展望
- 76年度上半期短歌時評
- 第二芸術論への感謝
- 短歌ジャーナリズム
- 初井しづ枝さんを悼む
- 現代短歌とは何か
- 青年歌人たちの仕事
- 近藤芳美の近業
- 戦中派の短歌
- 四賀光子全歌集
- 新人出現まで
- 批評について
- 土俗と大衆
- 現代詩歌の問題
[付]「現代と文学」近藤芳美氏との対談