1991年10月、書肆山田から刊行された渡辺玄英(1960~)の第1詩集。
目次
- 水道管のうえに犬は眠らない
- 海のありか1
- 海のありか2
- 海のありか3
- 虹の階段
- ふるへるいちご
- メトロノーム・シンドローム
- TAXIにのって
- ひらひら
- 猫町ではなく
- あかずの踏切
- 遅刻
- おとしもの
- げんえい
- 御供
- 祖師西來意
- 遺跡の丘と未来のフライドチキン
- 化石の足をして
- Zへ……
- 石
- 眠りの情景
書評等
1974年7月、思潮社から刊行された北川透(1935~)の第3詩集。
これは『眼の韻律』『闇のアラベスク』につぐわたしの第三番目の詩集である。主として一九七二年と一九七三年を中心にその前後に書いたものを含んだ二四篇が収められている。その中の幾篇かは詩作品として読まれないかも知れぬ、と思っている。わたしとしては自分のモティーフを展開するに、もっともふさわしい表現を見出せたかどうかに、自己検証の基準があるので、現在の詩的常識や規範的な詩概念に照らして、〈非〉詩作品として読まれること自体に不満はない。しかし、それにもかかわらず、わたしはそれらをも詩作品として、そして、この全体を詩集として提出したいのだ。(「あとがき」より)
目次
あとがき
1959年3月、六月社から刊行された清涼信泰(1931~)の第1詩集。
わたしは一九五四年中頃、はじめて詩を書いた。大阪中央郵便局で「中郵詩人」というサークル詩誌をおこしてのことだったが、芸術運動というおこがましいものでもなく、なんとなくやってみたいという気餅からだった。
長谷川龍生・井上俊夫・浜田知章は、一九五五年から六年にかけて、わたしの生活をゆすぶった。中でも、長谷川龍生は、未だにゆすぶり続けている。わたしの大収穫のときだった。
一九五七年・わたしの作品らしいものを発見磨ることができたとき。
一九五八年春、わたしは詩集を出すべきだった。(「あとがき」より)
目次
コックの指
黒ん坊
あとがき