1941年11月、櫻井書店から刊行された加能作次郎の短編集。装幀は鍋井克之。画像は裸本。
加能作次郎の小説は、友人の作品であるからといふ意味でなく、私は、愛讃してきたので、作品の数があまり多くないからでもあらうが、九分どほり讀んでゐる。
加能の小説は、いはゆる私小説(あるひは身邊小説)であるといふ理由だけでなく、三十年程の間に、殆ど變つてゐない。これは珍しい事である。
加能の小説はみな穏和であり、その小説の題材はみな平凡であり、その書き方も、題材と同じやうに、平凡である。これも珍しい事である。それでありながら、加能の小説には、誰も真似のできない、加能郷得の、何ともいえぬ味がある。
加能の小説は、どんな暗い事が書いてあっても、決して暗いところがないばかりでなく、いかなる人にも親しみを感じさせる。それは加能の人柄そのまままである。つまり、加能は、どんな逆境にあつても、決して逆境にあるやうに見えなかつたばかりでなく、いかなる人にも親しみを感じさせた。それは、この本に収められてゐる、『世の中へ』、『恭三の父』、『火』、『迷ひ児』、『子供の便り』などを読めば、誰にも分る。さうして、これらの作品は古いか新しいとかを超越してゐる。
この本の最初に収められてある、「心境」は、加能の最後の作品であり、絶筆であり、作品としても中絶してゐるが、これだけで、最も晩年の加能の心境が分る。さうして、さすがに、この小説が他の加能の小説と幾らか違ふのは、晩年の心境が、眞にありのままに語られてみる事である。こころが、大抵の人には、堪えられない、暗い暗い、生活であり、心境であるのに、この小説にも、加能獨得の、諧謔味があり、やはり、暗さがない。さうして、これを仮に心境といふならばこの心境は、鍛錬されたもの(といふところもあるけれど)でなく、加能が持つて生れたものである。さうして、加能の全作品はこの心境」をもつて書かれてあるのでゐる。
ある外國の作家が、自國の何某といふ故人の作家について書いた或る文章の中に、「私はふと町で紙切れを拾ひあげた、それには、あまり文字のない人の手で、圖書館で借り出さうと思ふ本の名が書いてあった、かう書いてあった、『何々を借り出すこと、それから、何某の本――何某――實に愛すべき人間だ。』」と書いてゐる。
私は、この言葉を捩つて、かう書かう。
加能作次郎の小説――加能作次郎――實に愛すべき人間だ。
(「跋/宇野浩二」より)
目次
序・廣津和郎
- 心境
- 世の中へ
- 恭三の父
- これから
- 篝火
- 子供の便り
- 迸兒
跋・宇野浩二