1942年4月、利根書房から刊行された伊藤整の短編小説集。装幀は岡鹿之助。
「父の記憶」と「十二月八日の記錄」とは、最近の作品である。この二篇に記錄風な手法が見られるのは、大東亞戰爭の開始以來、生活の現實に對して小説家はできるだけ謙虚であらねばならないといふ作者の氣持の反映である。以前ならば、るりと作爲的なものを私はこれ等の材料から書いたにちがひない。しかし今は、作者は現實への素朴な感動の中に静かにひたり、その中で感銘の餘分なるのを洗ひ去りたい氣持が切である。
まことにこの度の戰爭は、私たちに、單純で強く、かつ謙虚に生きることの必要を教へてゐる。そして、さういふ基礎の上に將來の日本の文學は築かれるものと考へる。これ等の題材るやがて作者は別個な仕事の中に再び取りあげるつもりであるが、今はこの形に止めておきたいのである。
「溫泉療養所」は軍事保護院の依頼を受けて書いた作品である。多少のユーモアを加へて、この重々しい題材に明るさを與えたいと思つて筆をとり、その後再び加筆してかなり改めたが、これは難かしい仕事であつた。
「微笑」は知人の醫師の體驗に一二の暗示を得て、ほとんど創造的に書いてしまった作品であるが、多少の愛着を持つてゐる。「アカシアの句について」は極く初期の作品で、處女作と言ってもいいものである。この作品は質的に現在の自分から遠いものであるが、抒情的な自分の一時期を記念するものとしてここに収めた。「斑點」「街上で」等もまた作者のその次の時期の作風をあらはするのとしてここにとりあげた。
最後の十餘篇の小篇は、あるひは感想風であり、あるひは小說風であるが、ともに書く時は一種の短い記録として書かれた。今讀みかへして見て、かへつて普通の小說としてまとまつたものよりも、これ等の小篇に自分の氣持のよく現はれたものが多いのに驚き、なつかしく思ふ。かういふ作品が或はかへって人にも親しまれるかも知れぬ。
(「あとがき」より)
目次
- 父の記憶
- 十二月八日の記録
- 温泉療養所
- アカシアの匂について
- 微笑
- 街上で
- 斑點
- 雨と雪
- 女子修道院
あとがき