嫁 大岡龍男

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 1950年4月、東和社から刊行された大岡龍男(1892~1972)の長編小説。

 

 私が俳誌ホトトギスを毎月本屋から配達して貰つたのは、二十年も前からである。それは漠然と俳句といふものに興味を持つてゐたせいもあるが、その頃私は俳句を作つてはゐないし、その雑誌をとつてゐたのは、むしろ俳句よりはそれに載る俳文隨筆小説をよむためだつた。
 その中でも、大岡龍男といふ人の書いたものには實に深い興味を持つた。その一つ一つが隨筆の形をとりながら、すぐれた私小説の感じだつた。ことに(妻を描く)といふ長篇の分載されてゐた時など、との作品は文壇でも注視されていゝ優れた私小説だと思つた。とれが単行本になつた時、たぶん正宗白鳥氏が褒めてねられたと思ふ。
 それから今に至るまで、大岡龍男氏はうまずたゆまず、同誌上に絶えずすぐれた私小説といべき一文を毎月寄せてねられる。
 この書(嫁)のごときも、私の毎月愛讀しつゞけたものである。これも私小説の類ひではあるが、單なるそれは自然主義的な書き方でなく、現實の生活の叙述の裏に、いひ知れぬ柔らかな純粋な情味を堪えた――いくつになつて作者のどこかお坊ちゃん氣質を思はせる善意(グットウィル)が裏打ちされてゐることで、韻む人の心をほのぼのと温めると思ふ。
 それが私をして、大岡氏の作品贔屓にさせる原因である。また、氏は虚子門下の俳人であるだけに淡々たる文章の裏に、實に適確な表現がある。けれどもこの淡々たる表現を生む人自身は、こうした私小説的な文章に身を打込むほど、實にねつい生活への執着、愛着とらいふべき遥ましさを持つてゐられることは、この本を讀んだ人にはお分りになると思ふ。
 ともあれ、このやうな大岡氏が、何故文壇的に一人の小説家として坐り込まれないか、不思議な氣がする、しかし考へると、氏の文章の味ひは、むしろ職業的の作家としてでないところに深い餘韻をふくんでゐるのだと思ふ。
 しかも大岡氏自身は、文學に對して十分の鑑識眼を具へてゐられる。かの(煉瓦女工)で一躍名をなした野澤富美子を世に送つたのも、との大岡氏なのである。
 それほどの大岡氏が、いま放送局の文藝に關するポストにゐられることは、放送文化のためにも頼もしいことで――或は氏の才能は桝に被はれた燭光のような氣もするけれど、どうかこの書によつて大岡氏の文學の愛好者が澤山ふえ、氏の文學がますく完成される機縁になれば、氏の作品のフアンの一人としての私、ほんとうにうれしい。かくあらんことを祈る。
(「大岡氏の作品について/吉屋信子」より) 

 

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