1981年10月、青土社から刊行された相澤諒(1927~1948)の遺稿詩集。装画は小川稔。
相澤諒は腸結核による闘病のあげく昭和二十三年九月二十八日大宮日赤病院で服毒自殺した。享年二十一歳であった。本書に収めたものは、彼が『鎧塚』と題してまとめ、友人M・O嬢が筆写した詩稿六十篇から、私の判断と責任により選んだものである。選択にさいし「鎧塚に寄せて」以前の作品はすべて習作とみなして省き、またその後の作品の若干も省いたので、本書に収めた作品は、彼の十七歳から二十一歳までの作品の中の主なものであるということができる。
相澤諒は旧制東京府立五中(現在の小石川高校の前身)における私の一年下級生であった。そのため私はこれまで彼を私より一歳年少と思っていたが、今回教えられたところによれば、彼は昭和二年一月十三日に生まれているので、私より四日年長だったわけである。彼が私より一学年おくれたのは、小学校六年の時病名不明の病気にかかって一年休学したためであるという。彼の実家は埼玉県児玉郡藤田村(現在の本庄市)牧西において酒造を業としていた。父公平母スヤとの間の長男で、四人の姉と一人の妹があり、父と義母との間に生まれた弟妹もあるようであるが、その消息はさだかでない。父公平氏は事情あって家業をつくことなく、証券業にたずさわり、鉱山の採掘なども手がけ、経済的に生活もかなりの浮沈があった由である。生涯いわば夢を逐う型の人柄であったように思われる。四人の姉のうち二人はごく稚いときに死去し、実母スヤさんは昭和十二年に、次姉都さんは昭和十九年に、父公平氏は昭和二十五年に、いずれも結核で死去している。抗生物質が開発される以前、結核がいかに怖しい病気であったかを示す実例のような家系であるが、体質として結核に対する抵抗力が弱い家族であったのでもあろう。
相澤家は雑司ヶ谷、浦和市木崎、下谷区谷中真嶋町などを転々し、相澤諒は昭和十五年下谷小学板から府立五中に進学するが、やがて父と義母とが埼玉県深谷に移転し、諒だけは駒込に一人で下宿することとなり、その後死に至るまで、つまり十代の前半を終えるか終えないかという頃から、二十一歳で自らの命をたつまで、ついに家庭生活を知らず、一人で下宿あるいは自炊の生活を続けることとなった。このことは父公平氏の前記したような人柄や義母との関係などに原因があったものと思われるが、そのことは別として、彼の詩作品にみとめられるふかい孤独感、若干甘美な内視への慕情、などは彼のこうした生活と無縁ではあるまい。だからといって、彼が貧困であったとは私には思われない。中学時代も、またその後も、彼は充分な仕送りをうけていたようである。後に記すとおり、終戦後食料が窮迫した時期、彼は相澤家の家業をついだ父たちから清酒を始終恵まれていたようであり、当時は酒があればこれを米や肉などに交換することにも不自由はなかった。いずれにしても、私の眼には相澤諒の生活はかなりに優雅なものに映していたのであるが、それもあるいは、彼のこまやかな心遣いや、もてなし好きが、私をいくらか錯覚させた面もあるかもしれない。
私が相澤諒という名を知ったのは、私が府立五中の二年、彼が一年のときであった。五中には一年に一回発行される雑誌があって、教師たちのいくつかの文章を除き、主として生徒の論説、詩歌、創作などを掲載していたが、この「開拓」と題する昭和十五年刊の雑誌に一年生の相澤諒が「好きな道」と題して、浦和の郊外の風景を回想する作文を投稿していた。私にとってうなじみふかい風景がいきいきと描写されていたので、私の目にとまったのだが、この後記を書くために読みかえし
てみると、次のような一節があった。「此の道は幼い頃母と、郊外を散歩して居た時、ふと見つけたものだった。……むし暑い夏の日など、きまって母は僕とそこへ行った。涼しい木陰のやはらかい草の上に身を投げて、蝉の鳴声を聞きながら、家から持って来た本などを読みなどしながら母と共に過す一時、それは今考えて見ても一番楽しかったことだったと思ふ。
しかし、僕の心を引きつけたものは単にそれだけではない。此の小道を真直に行くと、つきあたりに(と言ってもまだ小道のある森の中程である)マリを半分に割ってみせたやうな直径四五米くらいの小山がある。其の小山の上には松や椿の大木が茂って、小山を美しく引立てて居るのであった。四五年の頃から、他と変った此の小道と小山を、此所へ来る度に不思議に思って居た。だが、其の謎は五年生の或日、連晶寺の僕等と親しくなった一人の坊さんから聞いて解けた。それは――
戦国時代に勢力のあった小田原城主、大森某といふ武士が北条早雲に攻められて城を取られ、小田原から落ちのびて此の辺まで来たが、世の中の無常さに打たれ、出家する決心をなして、家重代の刀や冑を土を掘ってうづめ、塚をこしらへ、さうして其の塚のほとりに寺を建て、一生そこで暮して余命を終ったのださうだ。...(下略)...
僕は此の話を聞いて以来、ますます此の場所がすきになった。又そこへ行けば亡き母の面影を不思議にはっきりと思ひ浮べることが出来た。(母は其の年の秋亡くなったのであった)。……」いうまでもなく、右の文章はこの詩集巻頭の「鎧塚に寄せて」の素材となった体験を示している。そして、この詩が、地球を厖大な宇宙のなかの遊星のひとつにすぎないのだ、またこの地上には戦火のさなか鎧を埋めて世を捨てた人々の碑がいくつも、いくつもあるのだ、という思いを、昭和十九年という時点で、十七歳の少年がうたいあげたのだということを教えてくれるだろう。つまりは、太平洋戦争の末期、前途に確実に待ちうけているものは死しかないと観じた少年が、無常感をバネに生きることを決意した悲しみが、「鎧塚に寄せて」の主題をなしていること、また、こうした思いの底には亡母への思慕がふっふっと流れていることを、すでにこれに先立つ四年前、十三歳のときにはじめて公表した小文がはっきり教えているのである。
それはさておき、相澤はひき続き二年生になって石川啄木ふうの感傷的な短歌を同じ「開拓」に投稿し、三年生になると「凱歌」と題する詩を投稿している。この詩については「現代詩手帖」昭和五十三年一月号に「私が詩に近づいた頃」という文章を執筆したさい、私はその全文を引用して思い出を記しているので、重複してここに書くことは差し控えることとする。この雑誌は五年生の各級から推された委員が編集にあたったが、次年度の実務の習得のため、四年生から一、二名の委員が加わることが例となっていた。このため、私は四年、五年と二年にわたり、「開拓」の編集に関与したが、同じように、私が五年のとき、選ばれて四年生から編集に参加したのが相澤諒であり、また、今日劇作家として知られる矢代静一であった。そして、この昭和十八年九月発行された雑誌「開拓」の編集の過程で、私は相澤や矢代と個人的に相識ることとなったのであった。ただ、私は記憶力に乏しいせいか、その当時、彼らとどんな会話をかわしたか、彼らの挙止風貌がどんなものであったか、をまったく憶えていない。私の記憶に残っているのは作品だけである。矢代は「藤村・透谷と母校」と題する泰明小学校にまつわる随想を発表しているだけだが、相澤は短歌を発表し、詩を発表し、創作をも発表している。詩、創作もかなりの水準のものだが、私の印象に鮮やかなのは短歌である。短歌といっても旋頭歌で、例をあげれば次のような作品であった。水脈白く舟去りて消ゆる湖眺めをり
夢の如ゆるる水草ゆるるわが影
笹原の寂まりしなかに歩みひそめつ
奥山の頂きの雪ひかりさしそむ(「後記」より)
目次
- 鎧塚に寄せて
- 糸遊(かげらふ)
- 弟のうた
- 童話
- あのとき
- じゆずかけ鳩
- みちぞひ
- かげらふのうた
- 星の秘密
- ひるの星
- いざなひ
- 虹曳(かげらふ)
- 罪
- 秘密
- 仏蘭西人形
- うすらひびと
- 纜(もや)ひびとⅢ
- かげらふ
- 繻子
- 春の微風
- Atlantis
- 喪
- ち汐のおく
- 冬の悲歌
- 唖の歌
- れんえん
- (風よ)
後記(中村稔)
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