窓枠の朝 斎藤峻詩集

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 1968年11月、東京コスモス社から刊行された斎藤峻の第3詩集。

 

 「詩戦行」のころ―大正十三年から昭和のはじめにかけて―詩に憑かれていたわたしたちは、「赤と黒」その他を通して、ニヒリスティックなダダの影響をつよくうけた。古ぼけた権威を否定し、伝統を破壊しようとした。したがって一切の過去に学ぶことを拒否した。破壊こそ新しい芸術の源泉だと考えた。それは怠けものには都合のいい思想だ、私は詩についてその精神をもちつづけてきた。
 詩集『夢にみた明日』をだしてから五年、秋山清の誘いで詩誌コスモスの同人となって、再び詩作にかかわり、仲間もでき、我流の作品を発表している。友人のすすめもあって、不本意ながら快気祝いなどかねて、一九六四年から六八年春までの二十数篇をまとめてみた。そしてやはり、内外からもっとぶち壊さなければだめだな、とつくづく感じている。
(「自序」から)

 

 斎藤峻は、本年六十五才である。私が六十四才だから、私より一年の兄貴ということになる。私達二人の交友は、埼玉県浦和の、浦和中学の時代から、詩を作り、絵を描き、文学を論じ、思想に開眼しはじめたその頃から、今日迄、延々五十余年続いて来た。このことは、お互にとって、人生一代の莫逆の友同志といえるであろう。私達は、私達の年齢からいって、もう余す処は幾年もあるまい。然しこの好朋友(ハオポンユウ)の情は、人生の終焉まで、消ゆることなく続くであろうし、従って、二人の友情には、終りがないといい切ることが出来る。

 今年の早春、峻は病んだ。国立東京第二病院の医長をしている私に、すぐ、奥さんの幸子さんから電話があった。峻自身は、要入院の重患であるとは考えていなかったようであるが、夫人は、その日常の病状から畏怖していた。私は躊躇なく入院をすすめ、私の畏敬する呼吸器科の熊谷謙二博士の診を受け、その手術をうけた。
 サコチャン(峻夫人。婚前姓名左近允幸子から来た愛称)や彼の弟妹達の献身的な看護、友人達、例えば、峻が在職していた都庁の社会教育部の人達、浦和中学の同期生達、或は、文学関係や関係している大学の先生達の、献血や物心両面に渉る被護に包まれて、峻は、よくこの大手術に堪えぬいた。この困難な老年の闘病に当っての峻の生活態度や、知天命の心境の中には、彼の祖父、曽祖父斎藤弥九郎竜善、篤信斎達の血の流れを感じさせるような一種の風格があった。
 私は、よく、峻に、この二人の劔客を、文章にするように要請したものであったが、遂に、今迄果していない。かなり豊富な遺品や記録を中心に、彼の余生の仕事として完成してくれることを、今も願っている。
 その三ヶ月の、病院五階の個室の中の生活、苦渋の中にものしたのが「窓枠の朝」以下の数篇の詩である。病状が快方に向かうに従って、峻は、その入院中に寄せられた各方面の人々の芳情に謝する方途に困惑していた。秋山と私を招いて相談があったが、結局、五階の病床生活中の作詩や、ここ数年来の詩稿を整理して刊行し、この本に、万感をこめて各位に贈呈し、謝意を表するということにまとまった。
 いい試みである。近く秋山は私達の「詩戦行」同人時代の詩から今日に至る迄の詩稿を整理して「秋山清詩集」を世に出すことになっている。峻にも、彼の五十年の内面生活の記録として、秋山と同期間の詩を未発表のものも含めて整理集大成して貰いたかったが、病後の実情には無理である。他日に期するより仕方がない。こうして、第三の詩集『窓枠の朝』は世にでることになった。私としては、彼の完全なる復帰が、一日も早からんことを祈願する。
(「『窓枠の朝』によせて/小林一郎」より)

 

 彼についても彼の詩についても、まだ一度も、これという感想を述べたことがない。二人で向きあって坐って、出来たばかりの「コスモス」の作品などについて語り合うことは今もしばしばだが、それは彼の詩の批評、とまではゆかぬ思いつきぐらいのところである。

 斎藤についてかきたいことは二つある。一つは大正十三年九月十三日の夜のおそい汽車で上野を立ち、観光客などのまだまるで来ることもなかった平泉に降りて中尊寺毛越寺の跡を歩いたことをはじめに、当時鉄道省東鉄局の改良事務所にいて、そこから持って来てくれる鉄道パスであちこち旅行させてもらったことである。二人で日光や諏訪湖などにもいった。広島にもいった。九州を一めぐりして霧島山の高千穂の峯から鹿児島湾の彼方に沈む夕陽を眺めた昭和元年大晦日の夕刻から、その山中に彷徨した翌元日朝までのことなどは、わが生涯の記憶であろう。
 もう一つは詩についてである。東京に来て、もし彼と出逢わなかったら現在のように詩とかかわっていたであろうか。彼を中心に細田東洋男、小林一郎と四人で同人誌「詩戦行」をはじめなかったら、ぼくの生き方も考え方もすこしちがっていたかもしれぬ、とそれほどの思いである。
 まだ白秋や牧水の短歌、藤村や清自らの詩を誦してよろこんでいたときに、彼は現代詩をすでにかいていた。七五調新体詩の尻尾がとれてしまわずに詩を考えていた者に埋めがたい距離を感じさせるほどに先行していた。大正末期の前衛的芸術運動の破壊的な意義やバクーニンへの親近感についても彼ははるかにリードしてぼくの目をひらいた。「破壊こそ建設である」ということを彼の書いたものやふだんの話題のなかからようやく吸収した。「詩戦行」には一時二十人近い仲間があつまり、職工、学生、建築設計士、店員、エレベーターボーイ、失業者等々雑多な構成で、小さく不同調な雰囲気で生活集団を形成したが、そのうごかぬ中心は無口で温和な彼であった。酒を飲んで酔ぱらって踊りくたびれるまで遊ぶ、その先達も彼であった。詩について彼を語ろうとすればダダとニヒルの一時期が不可分にぼくのなかの斎藤に(そしてぼく自身に)まつわってくる。あの大正から昭和にかけての、ぼくたちの二十三、四才くらいまでのときは、既成の道徳や価値観がボロきれのように踏みにじられねばならなかったし、それをあえて為し得た者のみに時代を掴み得る内部革命が与えられたと思うが、ぼくにすこしばかりでもその資格があったとしたら、ほとんど彼とそのときの仲間に負うところである。
 ながい時間のたってゆくうち、ぼく自身ともすればそのことを忘れがちになる。斎藤が今年早春、大患の手術に立直って『秋の詩』『夢に見た明日』につづく第三番目の詩集のためにその集められた詩稿を読みかえし、また久しぶりに「詩戦行」初めからのもう一人小林一郎と三人で会談した後、あのわれ等の時期の、そしてぼくにおける斎藤峻の意味をふたたび噛みしめることができた。
 すべてほんの昨日のことである。だからそれは今日のことである。だからこの詩集のために昔ばなしのようなこともかくのである。時間のなかで古びてしまわないものを求めつづけてきたぼくたちであったのだ、というような感慨にもふととらわれる。
(「はじめての感想/秋山清」より)

 

目次

自序

  • 鏡面小景
  • おち葉どもとさなぎと

  • ばばあはきらい
  • 冬眠
  • その下
  • 西北の風

  • 日没
  • ある日の海
  • かわききった夏に
  • ある街の夜
  • 夕日
  • 地上二メートル程度
  • おち葉など焚いて

  • 窓枠の朝
  • 「逢魔がとき」
  • 雨のあたった朝
  • 長いわたり廊下

『窓枠の朝』によせて 小林一郎
はじめての感想 秋山清


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