文学青春群像 小田嶽夫

f:id:bookface:20210601085813j:plain

 1964年10月、南北社から刊行された小田嶽夫(1900~1979)による昭和初期文学青年回想記。

 

 私は前に「三つの死」という題で、若くして逝った三人の文学友だちについて記したことがあった。稔りを俟たずに早く散ったその才華を愛惜する気持からであったが、ひとつには、徒らに馬齢を加え、世塵にまみれた身としての、彼等にたいする羨望にも似た気持からでもあった。
 この「三つの死」を書いたことが根底になるが、或るとき私は、生き延びて文学の道を貫き通した多くの他の友人たちの、主として無名作家時代のことも書いて見たい気になった。当時、昭和初年代の無名作家文学青年の生態は、今日の作家志望者のそれとは著しく異っているようであり、その意味で記録に値するものが無くはないとも思えたが、又、私は友人たち(私をも含めて)の文学青年を過した時代環境の特殊さに興味を覚えさせられたのであった。左翼政治文学の怒濤のなかに芸術文学青年として生き、新人若しくは新進作家になるが早いか戦争の渦に捲き込まれた彼等の環境は、たしかに「特殊」と言っても誤りでは無いだろう。
 「文学青春群像」とおぼろげな題名を附したが、右の意味で、正確には「昭和初期文学青年群像」なのである。
 この友人たちのことをただ並列的に叙べただけでは、随筆の集積になってしまう。一つの流れのなかにとらえなければならない。となると、どうしても自分を中心として、或る程度文学自叙伝的の形を取らなければならない。ただ、私は何ほどの仕事もしていない身ではあり、自己を伝記的に語ることは身にそぐわないものとして、甚だしく逡巡させられた。しかもこのやり方以外には方途をつかめないので、私は敢てそれを行った。その上いざ行い出すと、筆のいきおいのおもむくところ、時に横道へも走り、時に必要以上に自己を語るのに字数を費した。
 「文学青年」という言葉を私は何度も使ったが、今日ではこの言葉はもう死語になっているようにも思われる。私たちが文学青年時代の文学青年は、原則として職業を持たなかった。二足のわらじを穿くことを極度にきらった。一方で生計の仕事に従い、一方で文学にいどむ、そういうことは文学を冒潰することのようにさえ思われていた。その根本は、文学を「道」とするところに原因があったようである。
 「文学青年」という言葉は、こういうあり方の文学志望者に附せられた名前であったし、したがって、その言葉は必然的にそういうあり方の文学志望者を思わせるが、今の文学志望者はかつての文学青年のような生活は出来ず、その生活内容が変って来ている以上、その称呼ももうそぐわなくなっているのであろう。
 拙著では内容をあくまでも「文学青春」に限定したので、その後のことについてしたい多くのことはすべて割愛した。尚、登場してもらった人(先輩はもちろんひそかに師としている人も含め)にたいしては、一律に敬語、敬称を省いた。誌してそれらの方々の御詠想を得たい。
(「まえがき」より)

 

 


目次

まえがき
一 杭州西湖畔で

  • 蔵原伸二郎との出合い
  • 「葡萄園」転々

二 阿佐ケ谷界隈に群れる

  • 「雄鶏」創刊
  • 川崎長太郎の見合い
  • 外村、青柳、中山、木山など

三 極北の世界

四 プロレタリア文学退潮

  • 最低の生活
  • 田畑病む
  • 憂い顔の太宰治

五 青春の終り

  • 深夜の宴
  • 「城外」執筆前後
  • 芥川賞授賞式

六 暴風雨前夜

  • 郭沫若と郁達夫
  • 上海行
  • 辻野と緒方の死

 

NDLで検索
Amazonで検索
日本の古本屋で検索
ヤフオクで検索