1977年11月、詩稿社から刊行された夏目漠(1910~1993)の第3詩集。
「火の中の眼」という詩集を出したのが、昭和三六年七月であったので、これは、十七年ぶりにとりまとめたことになる。思えば永いこと自己点検を怠ったものだ。
多数の作品のなかから、篩いにかくベきはかけて編むという作業は、厖大な時間(およそ八ヶ月)と根気とを要し、その間、ほかのことは見送るのやむなきに至った。ほかのこと、つまり新たに創作するなどの仕事ができなくて、過去の自分と取組んでばかりきたわけだ。
そんな一面を伴ったにしても、本詩集が日の目を見たことは、自分自身にとって、意味が薄くはないのであって、むしろ満足感もあるようだ。即ち昭和三〇年ごろから今日までの二〇年間の、その都度単発的に作ったものを、暦順ではなくて色彩別に並べなおし整列させてみると、新たな眺めが得られなくもない。ばらばらの手足が、人間の形にまとめられ、しかもその形が、霧がはれて明瞭になったような気がするのである。詩集づくりは、私の場合”私の私による再発見”であるのであろうか。
明かに病者である私。「四季」では、それほどでもないが、「ぼくらは叫んで…」では躁のようだし、「日常の死」では鬱、ついに「颯爽たる無」では、竹の筒同然の中空者なのだ。
この四つに分裂し、分裂しながら変にうねり狂っているようなパーソナリティは、ひとりの人間、幼少期から成熟期を経て喪失の壮老年に達する過程を、なぞっているようにも見える。われながら笑止の至り、単純稚拙…おまえはまだこんな所にもたついているのかと笑われそうで、内心困惑気味である。
けれども、これを出すことによって、身軽になりそうな気がするのも、事実である。開き直って、骨の髄まで曝したからには、もうこれ以上堕ちることはあるまい。羞恥は、一度は超えるに値するもののようである。
気羞かしい身心の曠野を、こうして世にさらすことを、おゆるし下されたい。気味わるがらないで頂きたい。辱知のかたがた――島尾敏雄氏、椋鳩十氏、五代夏夫氏、そしてわが詩の直接の判官――井上岩夫氏ならびに「詩稿」同人諸兄に、はにかんでこれを捧げたく思う。またこの一冊の誕生を待って下さった友人諸氏にも。願わくば、ご叱正あらんことを。
(「あとがき」より)
目次
・四季
- 孤生事始め
- 一粒の真珠
- 春
- 影
- 脚
- 青い蚊帳
- 夏休みの小児
- 遠い気配
- 夏の海
- 蔬菜ぴいまん
- 台風の夜
- 逝くもの
- 風立ちぬ
- 過去
- 空いちめんの声
- 秋の女
- 私は見た 秋に
- 紙と文字
- 初冬の店
- たそがれの跫音
- 或る夕餉
- 闇のなかから
- 雪という文字
- 冬のメルヘン
- 綴方
- バリカン
- 坂のある町ない町
- 四季
・ぼくらは叫んで暮らすべきである
- ぼくらは叫んで暮らすべきである
- 絶叫
- 返して
- 踵は返すためにあった
- 愛の数式
- 実用に徹せよ
- 空と撃鉄
- 魚を食べる
- 久しぶりの愛
- 街頭所見
- サラリーマン
- 子どもと巨石
- 偉大さに居るお前
- 炊餐記
- 眼鏡直しに行った妻
- 飢えに堪える
- やさしさの鳥
- 音の墓標を
- 微妙な果実
- われ胎童
- デッサン・幼年記
・日々の死
- 昏く重たい夜
- 弟よ
- 見る
- 苦い風景
- いかなる日々を経たものの
- 地上
- どんな気で
- 遠山の影
- 幻醍の怪輪
- 現代の会話
- 天の鏡の下では
- 毀されるための絵画
- 死色
- 数々の死
- 美しい箱
- 事故始末書
- ドラマの進行について
- 枕の記
- 眠りへの国境で
- 女は眉宇をひきしめた
・颯爽たる無
- 夢で見る空
- 下降
- 逡巡
- 或る日 俺は
- 部屋
- 時の殻
- ひとつの最期
- 夕暮れの些事
- 颯爽たる無
- 気弱な流星
- 戯れる
- 虚しさの行方
- 父と子
- 出没の光景
- 円の不在
- 目をつむる
- 日はきらきらと
- 風景考
- 栄える町で
- 幻の犬
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