1964年11月、思潮社から刊行された富岡多恵子(1935~)の第3詩集。装画は池田満寿夫、装幀は勝井三雄。
わたしは老人に興味をもっていた。死というもののいちばんちかくにすわっている存在としてわたしは興味をもった。この意味では、にんげんはぜんぶが老人であり、わたしもむかしから老人でありいまも老人であることはおもしろいことである。
この他に興味のあることといえば、わたし自身をおもしろがらせる詩にも興味があった。ところが自分がおもしろがるものはたえず変っていった。言葉のもつ意味の感覚を哲学することも詩をつくる前の出来事としてはおもしろかった。他人のつくってくれた詩をまねることも手段としておもしろいときもあった。いま自分をよろこばせる詩がどういうものかわからない。そのまえに、わたしは自分をおもしろがらせるばくぜんとしたものがわからない。
空間のはしの方からにんげんの会話がきこえてくる。それはわたしがきくまえからつづいており、きくのをやめてもたぶんつづいた。にんげんの言葉のそういう無意味のとぎれとぎれで、わたしの昼間のまどろみをじゃまされるのをわたしは好む。
喋ることと喋らないことのあいだで、言葉の意味と無意味はずるがしこくいれかわる。この詩集をひとつのシンタックスとしてみると、それがかんぜんにひっくりかえっていない。だからきのうときょうのわたしは、詩からころげおちてうまくにげていったものでささえられる存在である。
(「あとがき」より)
目次
- 静物
- 挨拶
- まだ帰らないでよ
- 誕生日は何曜日だったか
- 喋らないでわたしは聴いた
- いつものように
- シナケレバイケナイコトヲオモイダシナガラ
- 女友達
- あなたの名前は何ですか
- 女たち
- 猫詩人
- 去年の秋のいまごろ
- 女タチ
- なみだ
- 水入らず
- 草でつくられた狗
- うつりかわり
あとがき