ぼくの作品は語彙に乏しく、詩に必要な飛躍したイメージと力強さに欠け、過去の出来事を再生しているだけであろう。しかしぼくは一貫として「情けない詩」を書こうとつとめてきたのである。(「あとがき」より)
目次
- 小鳥の少女
- 夜明け
- 黒き疾風(はやて)
- 八戸記
- ピストル
- 生きてゆく勇気
- 少年俳句抄
- 子供の世界
- 三角セキ計算法
- 慄然とする!
- 東京は良い
- ハマイバの鱒釣り
- 創作と実験
- 葉巻
- 石原裕次郎
- 嘘
- ぼくの履歴書
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感想等
1980年5月、駒込書房より刊行された松井啓子の第1詩集。34年ぶりに、2014年12月、ゆめある社より新装復刊された。
どうしてだろう。お風呂では知らない人にも人見知りせずすらすら話せ、自分を、明るく礼儀正しい人のように感じる。又、もしあの世というものがあるとしたら、銭湯のようなところではないかと思うのだ。(「新版のためのあとがき」より)
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旧版あとがき
大きな河をいくつも横切って北の方にゆき、そこで数年くらしたことがあった。そこからは中央の山脈がよく見えた。ひとびとは山の際まで果樹を植え、米や野菜のほかに、りんごや梨、ぶどうや桃などをつくっている。
くだものをもぎ始めるすこし前、夏も終わりの頃になると、毎年湯治場へ出かける。なかには、子供を授けるといわれてきた湯治場もあって、それでも、湯の中に沈んでいるのは、すっかり産みあげたいくつもの腰と、薄くつぶれた胸ばかり。あたしゃそのたんびにできて困った という意味らしい土地のことばと、むかしおんなであったひとのつややかな笑い声がした。ひとびとは、日に一度か二度、持ってきた米をたき、炭火をおこして干し魚を焼いたり野菜を煮たりして食べる。また、薬にするのだといって、ゲンノショウコや山あざみをとってきて軒下に干したりしている。
私は一週間あまりそこにいて、湯の中にはほとんど入らず、湯治場の炭倉の前のつめたい石垣の上にすわって、山下の駅舎やその背後の切りとられた山肌、四方の山なみをぼんやりながめてくらした。それから持ってきた画用紙と鉛筆で、草や木を何枚も描いた。※
これまで書いてきたものを、このような詩集に仕上げてくださった秋元潔氏に感謝します。
一九八〇年五月 松井啓子
書評等
松井啓子『くだもののにおいのする日』(詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記))
自由詩評 松井啓子詩集『くだもののにおいのする日』を読む 高木佳子
1970年8月、思潮社から刊行された中島玉江(1936~2009)の第一詩集。
詩集『日本列島星屑町にて』に於ける三〇篇の詩は、「別れの唄」「Rちゃんの涙」を除いて一九六一年春から六三年春までの約二年のあいだに書いたものである。(右の二つはそれ以後創った。)
したがってこれらの詩が生まれてから早くも八・九年もの歳月が流れたことになる。その間、埴谷雄高氏の膝元でぬくぬくと眠っていたわけなのであるが、今般、世の中に出してやることになった。今となっては、何故ともなく旅立たせるのが惜しい気がしないでもないが、思い切ってさようならを告げたいと思う。詩たちよ、つらい風に吹かれても死なないでいてくれ、いつまでも元気で過ごしておくれ、と。
(「あとがき」より)
序文 埴谷雄高
中島玉江さんは、或る時代、三鷹に住み、私は吉祥寺に住んでいたので私の許を訪ねてきたのであった。その頃中島さんは吉本隆明君のもとへ詩を持参していたので、そこで中島さんの附近に住んでいる私の話がでたらしいが、しかし、私が格別の意見を詩についてもっているわけでもないので、中島さんが持ってきた詩について何の意見も述べたことはない。ただその時代の中島さんが人生上大きな問題を背負わされていたので、その苦しい話の聞き役に幾度かなったのであった。しかし、やはり一人の詩人に関係のあるその問題は中島さんにより大きな苦痛をもたらしただけで集結した。
中島さんが今度出すことになった詩集のなかの詩篇の多くはその苦悩の時代以前の作品であるけれども、或る浄化作用がこの詩集の出版にあると思われる。何時もただの聞き役にとどまっていたワツィは、この詩集が信じ易い小児の心の持主である中島さんの心のひきたての回帰の場となることをひたすら望まざるを得ない。
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1975年9月、無限から刊行された堀内幸枝(1920~)の第5詩集。表紙・扉は高原秋一郎。
これは昭和四十年から、五十年の間に書いた作品から選んだものです。
「第二村のアルバム」に入る部分は、別の機会に作りたいと、除いておきました。
子供の日よく遊んだ古里の土手、その向うに見えた太陽も、父母、弟と過した村暮らしの日々も、それ以後の自分の境遇の中で、たえずなつかしく思い出すのですが、ここに集めたものは、今、生きている私の地点に立って書いたものばかり――「不思議な時計」「夕焼けが落ちてこようと」と同じ内容のものを集めました。(「あとがき」より)
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夢の人に
晩夏
夕日影
跋★怨念の詩人……嶋岡晨
1990年5月、遅刻の会から刊行された寺島珠雄(1925~1999)の第7詩集
詩集酒食年表第二 目次
会いたいひとたち抄
あとがき十章
2010年2月、藤原書店から刊行された金時鐘(1929~)の第9詩集。第41回高見順賞受賞。
気はずかしくて止めたが、思いとしては「金時鐘抒情詩集」と銘打ちたかった詩集である。日本では特にそうだが、抒情詩といわれるものの多くは自然賛美を基調にしてうたわれてきた。いわば「自然」は、自己の心情が投影されたものなのだ。「抒情」という詩の律動(リズム)もそこで流露する情感を指していわれるのが普通で、抒情と情感の間にはいささかのへだたりもない。情感イコール抒情なのである。
この詩集も春夏秋冬の四時(しじ)を題材にしているので、当然「自然」が主題を成しているようなものではあるが、少なくとも自然に心情の機微を託すような純情な私はとうにそこからおさらばしている。つもりの私である。植民地少年の私を熱烈な皇国少年に作り上げたかつての日本語と、その日本語が醸していた韻律の抒情とは生あるかぎり向き合わねばならない、私の意識の業のようなものである。日本的叙情感からよく私は脱しえたか、どうか。意見の一つもいただければ幸いです。
収録作品三十二篇のうちの十五篇は、学芸総合誌・季刊『環』(藤原書店)に連載したものである。巻頭詩の場をいただいたおかげで、久方ぶりの詩集が編めた。(「あとがき」より)
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夏
秋
冬
春
書評等
1980年10月、白馬書房から刊行された井川博年(1940~)の第4詩集。
この詩集は、前詩集「花屋の花 鳥屋の鳥」を出して以後の四年間に書いた詩の集成である。詩を書くことは孤独な作業であるが、そこにもやはり多くの他人の存在がかかわっている。身近に読み批評してくれる友人がいるかいないで、書かれる詩は生きたり死んだりする。その意味で今回は特に「円陣」で行を共にした玉木明・米沢慧氏と、この詩集を出そうといってくれた白馬書房の森田隆氏に深く感謝したい。(「あとがき」より)
目次
青い蚊帳
胸の写真
宝石