名前を呼ぶ 福田和夫詩集

 1977年11月、深夜叢書社から刊行された福田和夫(1947~)の第1詩集。装幀は司修

 

福田君の詩をよむ
秋山清

 解釈がこんなにもちがうものだろうかと思った。詩とは、という議論ばかりではなく、現在今日ただいま、同じ地球の上、同じ日本という狭い土地にいて、福田和夫君とぼくとは、別なものを見、別な空気を吸っているのかもしれないとおもうほど、この詩稿をまず読んだときそう感じた。
 そして二度、三度とよみかえしているうちに、最初のその思いはすこしずつ消えるようだった。私の気づかぬこと、見てもいないことに彼の注目が向かっていたとしても、自分をいとしむ思いで共通してるんだ、と考えを改めることができた。
 私は自分で解釈のつかないものを描こうとしなかったが、その狭さに気がついてきた。必ずしも何もかもに自分の解釈が行きわたるということこそ途方もないことである。そのことを、改めてこの詩稿を読みながら自誡する自分を感じた。福田君のおかげで私は自分をもう一度、出発の日の謙虚に戻したいとさえ考えはじめた。福田君と私の詩のもつ世界は表面はずいぶん離れて見えるが、そうではないと私のどこかが今そう思いはじめているのだ。「蛍光灯」という詩のなかに

 いつも蛍光灯をともしてきた
 思い当るのはこんな単純な事実である

という言葉がある。このようなものが私に欠けていた。

 

 継続される時間や制約された時間を知るには、私たちには手近に砂時計があるが、いわばそういう自然の経過時間の中では、詩は充たされて生れなかった。私にはつよくそんな感慨がある。詩は砂の落ちた時計の姿でもなく、それを上に返し直し、もういちど時間をあじわうことでもなく、私にとっての詩は自然の経過時間の外でおこりうる、いいえぬ対話といったものであった。この詩集に読者があれば、私はそんな対話を共有したいとねがっている。また、大略、そうした意味の鮮明さにおいて、私は、この詩集を、私の最初の詩集にできればとおもった。いわば、私にとってもっともそう意識できるとおもわれる、ここ三四年のおなじ詩作傾向の作品をあつめたのがこの詩集である。なお、最後になったが、この詩集は深夜叢書社の斎藤慎爾氏の御協力を得て発刊された。氏の真味あふれる言葉の中で私は私をうながすことができた。また氏の御協があって装幀は司修氏の御好意を得られた。両氏につつしんで感謝の気持をしるしたい。
(「あとがき」より)


目次

  • 送信の糸口
  • 野の上
  • 角々の歩行
  • 繰り返す
  • 螢光灯
  • 二重の着物の栗
  • 丈夫な脚
  • 並べてゆくほかないもの
  • あなた
  • 名前を呼ぶ

あとがき


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