1915年12月、にんぎょ詩社から刊行された山村暮鳥(1884~1924)の第2詩集。画像は復刻版
目次
- 囈語
- 大宣辭
- 曲線
- 手
- だんす
- 圖案
- 妄語
- 烙印
- 愛に就て
- 青空に
- A FUTUR
- 樂園
- 發作
- 曼陀羅
- かなしさに
- 岬
- 十月
- 印象
- 持戒
- 光
- 氣稟
- 模樣
- 銘に
- くれがた
- さりゆてゑしよん
- 鑿心抄
- 肉
- 晝
- 汝に
- 燐素
- 午後
- 風景
- 誘惑
- 冬
- いのり
1956年5月、東京創元社から刊行された金子光晴(1895~1975)の第12詩集。長篇抒情詩。装幀は赤穴宏(1922~2009)、挿画は芹澤晋吾(1928~1978)。
この詩を書き終つてみると、この詩が發端で、書こうとすることはこれからといふ感慨がふかい。そこで、三部作の計劃を立ててみた。一つは、僕ら日本人の来歴書であり、一つは、所詮僕らの肉體のとけゆく地を、風とともにさまよつてゐる解放の精神との關係について述べたいと考えてゐたことである。實際にその二册の詩集の稿を起すのは、じぶんの能力や時間をかへりみて、困難なことかもしれないと思ってゐる。またこれからのながいあひだに、食指がうごかなくなるかもしれない。しかし、この詩が生きるためには、あとの二册がつつかへとして必要なのだ。この詩は、僕の遍歴なのだ。しかも、要なき努力の遍歴で、世界を亡ぼす水の音、勿論、僕の自我も泥にかへすための下心をきくために他ならない。
人間は、苦役してみることだ。なにかに騙されて出發したのだとしても、あるきだすことで、風景はかはつてゆくのだ。この詩は、穿鑿するために、たしかめるために書かれたのではなく、流されてゆくものが足がかりをさがさうとして書かれたものだ。そして遂になにの足がかりもなかつたのだ。この詩をよむことは、人生の徒勞のなかの、とりわけ徒勞なことの一つだ。なにも書かれてないとひとしいからだ。僕がなまけものだつた結果として、こんな始末書を書く破目になつた。六十歳で、小學生と一緒に、一年生の教科書をひらいて勉強をはじめてゐるのだ。なにかをおぼえかけたときに、僕は死ななければならないことになるだろう。あとの二册の詩集がかければ、組立てた三つの銃のやうに、一つの場ができてくるかもしれない。(「跋」より)
1971年9月、山梨シルクセンター出版部から刊行された谷川俊太郎(1931~)の詩集。装幀/挿画は南桂子(1911~2004)。
新聞、雑誌のもとめに応じて書いた作品と、作曲され、歌われることを前提にして書いた作品からえらんで、この本を編みました。しめきり日、行数、主題など、さまざまな制限のもとで書いたものがほとんどですが、そういう制限を、私はとりわけ苦痛とは思いませんでした。詩を書いて金をかせぐというこのひとつの行為も、私にとっては、現実から働きかけられ、現実へ働きかえすという、生のダイナミックスの一部です。(「あとがき」より)
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五つの感情
東京バラード
あとがき
1976年3月、思潮社から刊行された山本道子(1936~)の第5詩集。
ここにまとめた二十八篇の詩は、一九六三年から一九六七年に発表したうちの一部で、バッテン、凶区、ゔぇが、詩学、現代詩、現代詩手帖、歴程、無限、などに掲載された(「あとがき」より)
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あとがき
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2003年10月、思潮社から刊行された小松郁子(1921~2009)の第5詩集。
作品は大体制作年次順になっている。ⅠⅡは『消える村』(思潮社、一九九七年刊)以前、ⅢⅣⅤは以後の作品である。一九九七年は埴谷雄高さんのなくなられた年で、埴谷さんがなくなられるまでのわたしの最高のよろこびは、思いがけない時、ポストに埴谷さんの送って下さった本を見出したときの天にものぼるよろこびだった。
(「あとがき」より)
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Ⅰ
Ⅱ
Ⅲ
Ⅳ
Ⅴ
あとがき