1962年10月、白玉書房から刊行された高安国世(1913~1984)の歌集。
自己の真実を見きわめることは、まことにむずかしい。一九五七年(昭和三十二年)十二月にドイツから帰国して今日にいたるまで、私はたびたび自己の真実を見きわめるべき契機に遭遇した。その時々にいたいほど自己の弱さや貧しさに眼をひらかた思いをしたはずなのだが、本当に自分が変り、作品が変ったという気持はない。自己の真実などというものは、自覚できるものではないのかも知れない。むしろ自分では十分知らずに行動し創作するその活動や作品の中に自己はあらわれていて、しかも自分ではそれを正確に認識できるものではないのかも知れない。自分を知ってしまったら、絶望のあまり、もう何をする勇気もなくなってしまうのではないだろうか。そう慰めて、私は相変らず無我夢中で生活し創作しているのであろう。
とは言え、私は作歌の上でこの時期に少々以前とちがった意欲をもった。かつて私の作歌の目標は真実の発見であり、その原動力は生活の嘆きであった。今もそれはそうなのだが、ただ受身に現実に対し、嘆くという態度ではあきたらない気持が多くなって来た。嘆き訴えれば誰でも理解し同情してくれるという甘ったれた気持にようやく堪えられなくなって来たのであろう。人に読ませ、感動を起させるには、ただ嘆いていてはいけないのではないか、めそめそした姿はむしろ反感をさそうものである。
私は時に心をふるい立たして、受身一方でない現実の捉え方をしようと試みた。それには従来の詠嘆の仕方、写生の仕方では不十分である。私は自己をのり越えるような気持で従来の自分の手法を破ることを敢えてした。それはまたまた未完成の自分に自分を追いやることであり、やむにやまれぬ衝迫からしたことといえ、時にはひそかな危惧を感じた。しかし、日常の現実の中に隠見する不思議な現それを捉え表現するところに詩がある。日常の連続の上にではなく、非連続の刹那に詩があるとすれば、日常の論理を伝える言葉に何とかして衝撃を加えねばならぬ。作者の内面の、精神のいきいきとした働きが言葉の上にも出て来なければならぬ。精神の抽象作用、言葉の表現主義的傾向は避けることができない。私のそういう傾向はしかし前からいくらかはあったのである。それがこの時期には時に強く前面に出たということができる。
アララギの先進たちは、私の歌が変な方に行ってしまうのではないかと言って心配してくれた。アララギの写実主義にとっては、観念的な要素はもう克服した過去のものと見えるだろう。私も一応はそれを認める。たとえば妻の生死の瀬戸際というようなときには、観念的要素は介入する余地がない。いわば真実一路の態度にならざるを得ない。だから深い感動さえあれば、観念の働く余地なく素直な抒情ができるとも言い得る。だが、これは日常の現実の平面上の、というか、連続した面の上での突きつめた抒情である。たしかにそういうものが短歌のよさでもあり、本筋でもあろうと思う。
しかし、私たちの生活の中には、別種の感動もあるのだ。いわば、立体的な視覚、多角的な認識から来る感動である。それは形而上的な意味合いを帯び、その全面的な意味を露呈しないまでも、問として人をその方向へいざなう。疑を知らなかった惰性的な精神に問をけ、衝撃を与える。私たちは現代の歪んだ現実にただ受身でいわけがない。それをただ常識的な面で批判するだけでは、本当にめざめない。問の形でもよい。否、私たちはたえず問う者でなけならぬ。
そういう意味で、この歌集の中に介在する未熟な試行をも見ていただきたい。おそらくこの歌集は、さまざまな要素を含んでいて、雑多な印象を与えることだろう。私の内部が整理し切れていない証拠であり、よいこととは言えないと思う。しかし、今はそのままの姿で一巻をまとめ、今後を期したい。
(「あとがき」より)
目次
- コカの苗
- 物体
- 熊蜂と犬と
- 軍隊
- 雨中泉
- 犬の死
- 小学校同級会
- 透明の塔
- 街角
- 花季
- 遡る芥
- 安保条約成立のころ
- はかなき折ふし
- 始動音
- 喚問
- 山峽
- 冬いたる
- 鍵
- 変身
- まぼろし
- 妻の手術
- 蘇る風
- 四旬
- とかげ
- わが雨季
- 北海道中標津
- 野村岬
- 納沙布岬
- 阿寒公園
- 網走
- 道東拾遺
- 電話交換局
- 冬の森
- 雪
- 雨一日
- 華やげる笞
- 夏・坩堝
あとがき