1996年6月、かど創房から刊行された池井保(1928~)の第3詩集。編集、装幀、装画は津田櫓冬。著者は丹後生まれ。刊行時の住所は、京都府竹野郡丹後町。
目次
Ⅰ
- 山の口明け
- 山の神
- 魔除け
- 浮標の旅
- 対話
- 誘惑.
- 蟷螂(かまきり)
- オホーツクの海
- うみはひろいよ
- あさがおがい
- 満月
- 鬼灯貝(ほおずきがい)のうた
- 時間
- 夭折
- 雀の枕
- 山里の暮れ
Ⅱ
- 一月
- 二月
- 三月
- 四月
- 五月
- 六月
- 七月
- 八月
- 九月
- 十月
- 十一月
- 十二月
注記
跋 足立一夫
あとがき 池井保
1956年9月、現代社から刊行された島尾敏雄(1917~1986)の短編小説集。装幀は勝呂忠。第1回戦後文学賞受賞作品。
この短篇群は人間の夢の部分についての研究と言えなくもないですが、その手法ははなはだしく私小説的です。私はこれらの短篇に自分でもっと期待を持っていたはずなのに、今度よみ返してみて、その表現の窮屈な様子に驚いた。これはまるで夏の電灯にしたいよった蛾の屍体の堆積と言えましょう。私は今これらの短篇群を人ごとのようにしかみることができない。こんなことを書いたのかしらと思うようなことが多いのです。多くのことをどんどん忘れた。こんなふうなものをもう書こうとは思わない。しかし私がもし過去の作品群の中からいくつかを自分のものとしてさし出すことを要求されたら、或いはこの短篇集の中のいくつか、例えば「孤島夢」、例えば「アスファルトと蜘蛛の子ら」を挙げることこなるでしょう。それは苦痛である。私は自分の表現を見つけようとして塁々たる死骸を築いた。その死骸を向こうして白日の下に置こうとするのは、たじろがずに進みたいから、からか?さて読者はこの未完成作品群をいったいどのようによんでくれるのか。
(「あとがき」より
目次
孤島夢
摩天楼
石像歩き出す
夢の中での日常
勾配のあるラビリンス
鎮魂記
アスファルトと蜘蛛の子ら
宿定め
兆
亀甲の裂け目
月暈
大鋏
死人の訪れ
坂道の途上で
鬼剝げ
むかで
川流れ
肝の小さいままに
あとがき
2002年12月、編集工房ノアから刊行された苗村吉昭(1967~)の第2詩集。装幀は森本良成。第5回小野十三郎賞受賞作品。著者は滋賀県生まれ。詩誌「砕氷船」同人。刊行時の住所は滋賀県栗東市。
何となく予感していました。「あとがき」を書き終えたら、あの子の命が終わってしまうのではないか、と。二〇〇二年十月五日早朝、頼知の心臓は止まりました。僕は彼の一日も早い死を切望していました。しかし、慌しく駆けつけて彼の死顔を見たとき、最後の湯浴みをさせたとき、遺体を小さい棺に納め蓋を閉めたとき、火葬場の炉の奥へ棺が消えバーナーに点火したとき、小さい骨を拾って骨壺に入れたとき、僕はどうしても涙を堪えることができませんでした。それは彼の死を悼む気持ちではなく、彼の二七二日間の命の意味を問う悲しみでした。
頼知は死によってしか不自由な肉体から開放されることはなかったのでしょう。ですから、彼はいま、本当に自由になって、小鳥や蝶のように、あちこち飛び回っていることと思います。
(「後記」より)
目次
Ⅰ受胎告知
Ⅱバース
生きて「在る」ことの厳然性 森哲弥
あとがき――『夜と霧』を携えて
後記
関連リンク
詩人 苗村吉昭さん(朝日新聞)
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2007年3月、湯川書房から刊行された金田弘(1921~2013)の第6詩集。付録栞は、大川内昭爾、中西進、新倉俊一、竹廣龍三、鈴木漠。著者は兵庫県龍野市生まれ、刊行時の住所はたつの市。
平成十八年六月五日には詩集『旅人は待てよ』を上梓した。当時、齢八十五歳を数日後に迎えるに際して、すでに人生の最終段階に入ったという自覚のもと、永年親しんで来た詩を通じての遺書という気持がないではなかった。そういう意味合いもあって、親しい人たちに栞文をいただきもした。
そしてこの度、また新たに詩集を編むのであるが、もはや世に問うという思いはなく、学生時代にわたしの人生の方向を決定づけた師・會津八一教授によって垣間見せていただいた古い奈良の都にまつわる詩篇を集め、亡き師への感謝の意を残しておこうと思い立ったのである。
残念ながら、その数は十八篇しかなかった。当初、わたしは詩集の題名を「鹿の鳴く」と心に決めていたのだが、選び出した詩篇を見る程に、會津八一の『鹿鳴集』なる題名と同意味であるが、詩篇の内容たるや、師が学を極め、その余韻で詠まれた世界と比すには程遠いもので、「鹿の鳴く」なる題名を使うことの浅き思いに気がついたのである。大変な過ちを犯す寸前であった。わたしは、師の秋艸堂学規の一つ、「かへりみて己を知るべし」をあらためて心に刻んだのである。そして詩篇の中から、「青衣(しょうえ)の女人(にょにん)」を選んだのである。
東大寺の「お水取り」が終ると春が来るといわれている。「お水取り」は、三月一日から始まり、十四日まで行われる「修二会」のことである。
その十四日にわたる練行のうち、三月十三日の未明、二月堂若狭井から香水を汲み、十一面観音に供える儀式である。五日と十二日には、聖武天皇を始めとして、東大寺大仏建立、二月堂建立にたずさわった人々、代々の天皇や東大寺の別当や僧、燈油や銭、紙、稲束などを寄進した人々の名が記された過去帳がえんえんと朗読されるのである。
聖武天皇から六十六人目に桓武天皇、七十五人目に弘法大師、三百五人目の當寺造営施主将軍頼朝右大将から十八人目に、”青衣の女人”という女性の名が朗読される。
二月堂縁起によると、承元年間中、過去帳を読み上げていた僧、集慶の傍らに青い衣の女性が現われて、「なぜ私の名をこの過去帳から読み落したのですか」と言って掻き消すように消え去ったという。それから青い衣を着ていたので「青衣の女人」と名づけて読みつづけているという。
これは詩集の表題「青衣の女人」の肖像である。
(「序」より)
当詩集を上梓するに際しては、先の詩集『旅人は待てよ』同様、我が陋屋に出入りしている福野敏博君が、昔から現在までの発表作十八篇を掘り起こしてくれた。編集も神戸の詩人・鈴木漠さんにお願いし、栞の作成、人選もお任せした。
文芸評論家の大河内昭爾さんは、戦時中の中学時代から、わたしの師でもある會津八一の『鹿鳴集』に魅せられ、今日に至るまで傾倒一途であり、その上、先年偶然にも、御先祖がわたしと同じ村の出であることが判った、まことに不思議な出会いと縁の重なった間柄である。そして奇しくも、その大河内さんと古くからの親しい友人関係にある中西進さん。現在、奈良県立万葉文化館館長の要職を兼任しておられ、万葉学では我が国最高の権威でもあるのだが、殊にわたしが設立に関与した姫路文学館の初代館長としてお迎えしたこの播磨で、現在も万葉の華を咲かせ続けて下さっている。その姫
路文学館が毎年主宰し授賞している和辻哲郎文化賞に、わたしにとっても人事(ひとごと)とは思われない『評伝西脇順三郎』によって、平成十七年に受賞された旧知でもある英文学者の新倉俊一さん。それから、前詩集で栞文を書いていただいた姫路文学館の竹廣裕子さんの父である竹廣龍三さん。かつては、わたしたちが刊行していた詩画誌『GALANT』のスタッフとして詩を書いていたが、現在は詩から遠ざかり、現代美術に専念している。鈴木漠さんについては、前詩集のあとがきでも述べているが、その透徹した英才には敬意を表するばかりである。
こうして書いてみると、みなさんがわたしにとっては横一線に繋がっているようにも思われ、ふと、わたしの天空へ旅立つ送り火かも知れないという思いさえしてくるのである。
(「あとがき」より)