2020年10月、つかだま書房から刊行された仲俣暁生の評論集。ブックデザインはミルキィ・イソベ。
目次
はじめに:文学(へ)のリハビリテーション
- 政治を語る言葉を失った日本の小説
- 村田沙耶香『コンビニ人間』
- 崔実『ジニのパズル』
- 単なる政権批判や反原発小説ではなく
- 黒川創『岩場の上から』
- 「ゾンビ」ではなく「武者」を!
- 古川日出男:訳『平家物語』
- 羽田圭介『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』
- 孤軍奮闘で書き継いだ「新しい政治小説」
- 星野智幸『星野智幸コレクション』全四巻
- 「読む人」「書く人」「作る人」のトライアングル
- 長谷川郁夫『編集者 漱石』
- 渡部直己『日本批評大全』
- 現代におけるフォークロア
- 村上春樹『騎士団長殺し』
- ポストモダンの行き止まりとしての「ド文学」
- 又吉直樹『劇場』
- 「中核市のリアリズム」が出会った王朝物語
- 佐藤正午『月の満ち欠け』
- 日本を迂回して世界文学へ
- 東山彰良『僕が殺した人と僕を殺した人』
- 「震災後」の現代文学の見取り図
- 限界研:編『東日本大震災後文学論』
- 「文藝」二〇一七年・秋季号
- 自分自身の場所を確保せよ
- レベッカ・ソルニット『ウォークス――歩くことの精神史』
- 迎撃に失敗した昭和・平成の男たち
- 橋本治『草薙の剣』
- 現代文学の次の「特異点」とは?
- 上田岳弘『キュー』
- 「パラフィクション」と「ハード純文学」の間に
- 佐々木敦『筒井康隆入門』
- 小谷野敦『純文学とは何か』
- プロテスタンティズムの精神
- 松家仁之『光の犬』
- ポストモダニストの「偽装転向宣言」か?
- いとうせいこう『小説禁止令に賛同する』
- 行き場を失った者たちが語る絶望の物語
- 星野智幸『焰』
- 文芸が存在するかぎり終わることはない戦い
- 古川日出男『ミライミライ』
- 現代中国のスペキュレイティブ・フィクション
- ケン・リュウ:編『折りたたみ北京――現代中国SFアンソロジー』
- 不可視の難民たちと連帯するために
- カロリン・エムケ『憎しみに抗って──不純なものへの賛歌』
- 多和田葉子『地球にちりばめられて』
- 小説にとっての勇気とフェアネス
- 古谷田奈月『無限の玄』
- 「震災(後)文学」という枠組みの崩壊
- 北条裕子『美しい顔』
- 批評が成り立つ場としての「うたげ」
- 三浦雅士『孤独の発明――または言語の政治学』
- マンガによる「漫画世代」への鎮魂
- 山本直樹『レッド 1969~1972』
- 「政治と文学」はいま、いかに語りうるか
- 赤坂真理『箱の中の天皇』
- 「想像力」よりも「小説的思考力」を
- 「新潮」二〇一八年一二月号・特集「差別と想像力」
- ポスト冷戦時代に育った世代の想像力
- ミロスラフ・ペンコフ『西欧の東』
- 韓国にとっての「戦後」
- ハン・ガン『すべての、白いものたちの』
- 批評家が実作に手を染める時代とは
- 陣野俊史『泥海』
- 新自由主義からの生還と再起
- マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム──「この道しかない」のか?』
- 絲山秋子『夢も見ずに眠った。』
- 元号や天皇(制)の無意味を語るために
- 「文藝」二〇一九年夏季号
- 古谷田奈月『神前酔狂宴』
- 「改元の後、改元の前」に芥川の幽霊が語ること
- デイヴィッド・ピース『Xと云う患者――龍之介幻想』
- 空疎な「日本語文学」論から遠く離れて
- リービ英雄『バイリンガル・エキサイトメント』
- 中国大河SFは人類滅亡と革命の夢を見る
- 劉慈欣『三体』
- 没後二〇年、「妖刀」は甦ったか?
- 平山周吉『江藤淳は甦える』
- 神町トリロジーの「意外」ではない結末
- 阿部和重『Orga(ni)sm』
- タブーなき世界に「愛」は可能か
- ミシェル・ウエルベック『セロトニン』
- 森の「林冠」は人類の精神をも解放する
- リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』
- 寡作な天才SF作家、一七年ぶりの新作
- テッド・チャン『息吹』
- 受け手のないところに打たれたノックを拾う
- 加藤典洋『大きな字で書くこと』
- 友の魂に呼びかける言葉
- 崔実『pray human』
- 「当事者研究」が投げかける問い
- 長島有里枝『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』
- 政治と文学の乖離を示すシミュレーション小説
- 李龍徳『あなたが私を竹槍で突き殺す前に』
- 「コロナ後文学」はまだ早い
- パオロ・ジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』
- テジュ・コール『苦悩の街』
- 国を失ったHirukoたちが〈産み〉だすもの
- 多和田葉子『星に仄めかされて』
あとがき
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