1998年9月、編集工房ノアから刊行されたたかぎたかよしの第5詩集。刊行時の著者の住所は明石市。
目次
- 鍵
- 釦
- 傘
- 物指
- 栓
- 皿
- 蝶番
- 止まり木
- 顔料
- 切手
- 鈴
- 糸
- 把手
- 瓶
- 袋
- 枕
- 墨
- 発条
- 押花
- 櫛
- 鋏
- 図面
- 鏡
後記
1992年1月、ミッドナイト・プレスから刊行された根本明(1947~)の第5詩集。装幀は金城秀明。付録栞は中上哲夫。著者は宮崎県生まれ。
前詩集を出した後、「荒涼地帯」という連作で、東京湾東岸の埋立地の風景を描こうとした。だが、ふりかえるとそれらの言葉の多くは瓦礫のようにみえた。世界と幻想のねじれのなかに自己の身体と生を見出すというもくろみは、未だ迷路にあるということなのかもしれない。
ここ数年の私たちを取り囲む風景は激しく変化している。以前の光景を思い出すのが困難なほどの根底的な変化のようだ。それは意識よりもはるかに速い。今、どこにいるのか、私たちとは誰なのかという問いがますます私の中でせりあがってくる。
(「後書き」より)
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後書き
1964年3月、日本談義社から刊行された荒木精之(1907~1981)の随筆集。カバーは伊藤研之。
目次
・蛙の寝言
・吹きだまり
あとがき
1996年11月、白地社から刊行された奥村真(1949~2009)の第4詩集。装幀は間奈美子、写真は安田有。刊行時の住所は杉並区阿佐谷北。
「詩は人間に一対一で話しかけ、仲介者ぬきで人間との直接の関係を結ぶ」
「亡命は、普通なら一生かけて辿り着くようなところに、一晩のうちに連れていってくれる」
(ヨシフ・ブロッキー『一九八七年ノーベル賞授賞講演』沼野充義訳)インターネットは仲介者を飛び越える(ことを可能にする)。インターネットは中間管理職を飛び越える(ことを可能にする)。インターネットは仲買人を飛び越える(ことを可能とする)。インターネットは手続きを、解説を、段取りと根回しを飛び越える(ことを可能とする)と言われている。
インターネットによってはじめて可能になったと言われていることを、詩はそして亡命は遥か以前から実現していた。その意味で詩はそして亡命は一種の奇跡であり飛躍だ。
インターネットで遊ぶことがコンピュータに関する知識とはまったく無関係なように、詩もまた詩をもて遊ぶ知識とはまったく無関係だ。
詩はインフラだ。詩は電気、ガス、水道以前から生活必需品だった。詩は一方的な断言であり、一方的な主張の交差する互連網絡だ。民主的な詩などない。詩は言いっぱなしであり書きっぱなしであり、まったく反省がない。詩には正しさも誤りもない。アクセスするかしないか、身を乗り出すか顔を背けるかのどちらかだ。詩は秩序を軽んじ、礼儀知らずだ。なぜなら詩には資格取得がなく、考課者訓練もなく、昇級試験もなく、総じて人事査定がないからだ。では詩は自己申告制なのだろうか? といえばそうでもない。あえていえば相対評価ではなく、絶対評価だ。
だから詩は、
「全人類の幸福の熱烈な擁護者や、大衆の支配者や、歴史的必然の宣伝者たちに嫌われる」と前述ブロッキーは言っている。果たして、インターネットはどうか?
(「後書き」より)
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・バリアリーフ
・アカーキェヴィチ
・イウォル
後書き