1996年11月、白地社から刊行された奥村真(1949~2009)の第4詩集。装幀は間奈美子、写真は安田有。刊行時の住所は杉並区阿佐谷北。
「詩は人間に一対一で話しかけ、仲介者ぬきで人間との直接の関係を結ぶ」
「亡命は、普通なら一生かけて辿り着くようなところに、一晩のうちに連れていってくれる」
(ヨシフ・ブロッキー『一九八七年ノーベル賞授賞講演』沼野充義訳)インターネットは仲介者を飛び越える(ことを可能にする)。インターネットは中間管理職を飛び越える(ことを可能にする)。インターネットは仲買人を飛び越える(ことを可能とする)。インターネットは手続きを、解説を、段取りと根回しを飛び越える(ことを可能とする)と言われている。
インターネットによってはじめて可能になったと言われていることを、詩はそして亡命は遥か以前から実現していた。その意味で詩はそして亡命は一種の奇跡であり飛躍だ。
インターネットで遊ぶことがコンピュータに関する知識とはまったく無関係なように、詩もまた詩をもて遊ぶ知識とはまったく無関係だ。
詩はインフラだ。詩は電気、ガス、水道以前から生活必需品だった。詩は一方的な断言であり、一方的な主張の交差する互連網絡だ。民主的な詩などない。詩は言いっぱなしであり書きっぱなしであり、まったく反省がない。詩には正しさも誤りもない。アクセスするかしないか、身を乗り出すか顔を背けるかのどちらかだ。詩は秩序を軽んじ、礼儀知らずだ。なぜなら詩には資格取得がなく、考課者訓練もなく、昇級試験もなく、総じて人事査定がないからだ。では詩は自己申告制なのだろうか? といえばそうでもない。あえていえば相対評価ではなく、絶対評価だ。
だから詩は、
「全人類の幸福の熱烈な擁護者や、大衆の支配者や、歴史的必然の宣伝者たちに嫌われる」と前述ブロッキーは言っている。果たして、インターネットはどうか?
(「後書き」より)
目次
・バリアリーフ
- バリアリーフ
- パラダイス
- 世界樹
- モンスーン
- ネオン
- 蜃気楼
- だれにだって汚点はある
- 達成された高み
- 蝉
- 復活
- 夢虫
- 野良男
- 暗渠
- 火を起こし小屋を建てて
- 家路
- エイジング
- ファミリー・ツリー
- 愛知(フィロソフィア)
- 分別の盛り場
・アカーキェヴィチ
- テーブルマナー
- 種蒔く人
- 八月のアカーキー・アカーキェヴィチ
- わたしの生涯
- 児童遊園
- 阿吽の息
- 東京指南
- トレード
- 肥泥ベッド
- ヒロヒトデッド
- 一括売りビルの幼虫
- 当座の会社法人
- オフィスの跡形
- 豚の遺言
- ヌーディストクラブ
・イウォル
- 湿地の眼(やちまなこ)
- 高い山(リ・シリ)
- 夏の集落(サク・コタン)
- 定住
- 水(ワッカ)
- オホーツクの紙屑
- ゴンザの言語
- 猟場(イウォル)
- 神の庭(カムイ・ミムタル)
- 東方の人(チュプカンクル)
後書き