村上昭夫 作品と生涯  ふくしのりゆき

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 1972年10月、三人会から刊行された、ふくしのりゆきによる詩人・村上昭夫の研究書。刊行時の著者の職業は岩手県立高校教諭。

 

 村上昭夫との付合いは、ずいぶんふるいことだが、先年盛岡へ行ったとき、彼は国立療養所で寝ていた。大坪君や高橋君といっしょに、早朝の花屋をさがしまわったのをおぼえている。花をもって訪れると『動物哀歌』が出来たばかりで、彼の枕もとに積みあげてあった。それから面会室で小半時。彼の故郷である高田へ趨く私の車を正面玄関で見送ってくれた村上の眼がいつまでも忘れられない。
 私は高田での講演で、村上昭夫の晩翠賞の受賞を聴衆に約束した。それから昨年、私は水沢在の学校へ講演に出掛けたが、その最後を割愛して村上の詩を朗読し、次のように言った。

 「今日は啄木や賢治が岩手県でも広くよまれていますが、いまに皆さんのお子さんたちが大きくなり、啄木や賢治に食いたりなくなったとき、そのときは必ず、読みだされるのは、村上昭夫でしょう。それはもう疑いのないところです。村上昭夫は岩手県随一の詩人になる運命をもって、この世に生まれてきたのです。」

 私はこう言って一瞬絶句した。
 理由のわからない悲しみが、つきあげてきたからである。
 無性に彼がいじらしくなってきたからである。

 こうしてもうすでに、新時代の研究書が現われようとしている。私は村上の在りし日や、その詩の不易性を思って、感慨無量である。そして、本当に自分を愛する人達の間に広く愛読されることを、ひたすら望みたいと思う。
(「序/村野四郎」より)

 

 村上昭夫の詩は苦悩の詩である。我々が考えることができない苦悩の詩である。はっきりと理解することはできないけれども、感覚的・霊的に理解することのできる詩である。そこに流れているものは、「仁」を求めるための「恕」であるかもしれない。
 その詩は、一度手にした人々の心の奥に、必ず密やかに生き続けることであろう。そのためにも彼の姿を知ってもらわねばならない、そう思いながらも、幾多の虫や鳥や獣が殺されていった。しかし、やっと、五回忌に昭夫の家族や師・友人・知人たちの協力を得て拙著が出版されることになった。出版に際し、沢山の友人・知人が協力して下さったことに対して昭夫は歓んでくれるであろう。しかし、この拙著を私自身墓前にどう報告してよいやらわからない。
 賢治は、死後四年目にして、全集が出版され、詩碑が建ったという。昭夫はまだである。しかし、昭夫の心を知る者は、そのままの村上昭夫であってほしいと願うであろう。それは昭夫自身の願いでもあるからである。
(「あとがき」より)

 


目次

序 村野四郎

  • 誕生・幼年時代
  • 岩手中学時代
  • 詩の世界へ
  • 昭夫と戦争
  • 昭夫と賢治
  • 昭夫と「化石」
  • 晩翠賞・H氏賞の周辺
  • 死との激闘

跋 大坪考二、中条惟信、宮静枝
あとがき


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