青衣の女人 金田弘詩集

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 2007年3月、湯川書房から刊行された金田弘(1921~2013)の第6詩集。付録栞は、大川内昭爾、中西進新倉俊一、竹廣龍三、鈴木漠。著者は兵庫県龍野市生まれ、刊行時の住所はたつの市

 

 平成十八年六月五日には詩集『旅人は待てよ』を上梓した。当時、齢八十五歳を数日後に迎えるに際して、すでに人生の最終段階に入ったという自覚のもと、永年親しんで来た詩を通じての遺書という気持がないではなかった。そういう意味合いもあって、親しい人たちに栞文をいただきもした。
 そしてこの度、また新たに詩集を編むのであるが、もはや世に問うという思いはなく、学生時代にわたしの人生の方向を決定づけた師・會津八一教授によって垣間見せていただいた古い奈良の都にまつわる詩篇を集め、亡き師への感謝の意を残しておこうと思い立ったのである。
 残念ながら、その数は十八篇しかなかった。当初、わたしは詩集の題名を「鹿の鳴く」と心に決めていたのだが、選び出した詩篇を見る程に、會津八一の『鹿鳴集』なる題名と同意味であるが、詩篇の内容たるや、師が学を極め、その余韻で詠まれた世界と比すには程遠いもので、「鹿の鳴く」なる題名を使うことの浅き思いに気がついたのである。大変な過ちを犯す寸前であった。わたしは、師の秋艸堂学規の一つ、「かへりみて己を知るべし」をあらためて心に刻んだのである。そして詩篇の中から、「青衣(しょうえ)の女人(にょにん)」を選んだのである。
 東大寺の「お水取り」が終ると春が来るといわれている。「お水取り」は、三月一日から始まり、十四日まで行われる「修二会」のことである。
 その十四日にわたる練行のうち、三月十三日の未明、二月堂若狭井から香水を汲み、十一面観音に供える儀式である。五日と十二日には、聖武天皇を始めとして、東大寺大仏建立、二月堂建立にたずさわった人々、代々の天皇東大寺別当や僧、燈油や銭、紙、稲束などを寄進した人々の名が記された過去帳がえんえんと朗読されるのである。
 聖武天皇から六十六人目に桓武天皇、七十五人目に弘法大師、三百五人目の當寺造営施主将軍頼朝右大将から十八人目に、”青衣の女人”という女性の名が朗読される。
 二月堂縁起によると、承元年間中、過去帳を読み上げていた僧、集慶の傍らに青い衣の女性が現われて、「なぜ私の名をこの過去帳から読み落したのですか」と言って掻き消すように消え去ったという。それから青い衣を着ていたので「青衣の女人」と名づけて読みつづけているという。
 これは詩集の表題「青衣の女人」の肖像である。
(「序」より)

 

 当詩集を上梓するに際しては、先の詩集『旅人は待てよ』同様、我が陋屋に出入りしている福野敏博君が、昔から現在までの発表作十八篇を掘り起こしてくれた。編集も神戸の詩人・鈴木漠さんにお願いし、栞の作成、人選もお任せした。
 文芸評論家の大河内昭爾さんは、戦時中の中学時代から、わたしの師でもある會津八一の『鹿鳴集』に魅せられ、今日に至るまで傾倒一途であり、その上、先年偶然にも、御先祖がわたしと同じ村の出であることが判った、まことに不思議な出会いと縁の重なった間柄である。そして奇しくも、その大河内さんと古くからの親しい友人関係にある中西進さん。現在、奈良県立万葉文化館館長の要職を兼任しておられ、万葉学では我が国最高の権威でもあるのだが、殊にわたしが設立に関与した姫路文学館の初代館長としてお迎えしたこの播磨で、現在も万葉の華を咲かせ続けて下さっている。その姫
路文学館が毎年主宰し授賞している和辻哲郎文化賞に、わたしにとっても人事(ひとごと)とは思われない『評伝西脇順三郎』によって、平成十七年に受賞された旧知でもある英文学者の新倉俊一さん。それから、前詩集で栞文を書いていただいた姫路文学館の竹廣裕子さんの父である竹廣龍三さん。かつては、わたしたちが刊行していた詩画誌『GALANT』のスタッフとして詩を書いていたが、現在は詩から遠ざかり、現代美術に専念している。鈴木漠さんについては、前詩集のあとがきでも述べているが、その透徹した英才には敬意を表するばかりである。
 こうして書いてみると、みなさんがわたしにとっては横一線に繋がっているようにも思われ、ふと、わたしの天空へ旅立つ送り火かも知れないという思いさえしてくるのである。
(「あとがき」より)

 

 

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